生霊(いきりょう)

アパートの玄関に隠れ、私はただ立って、昔の夫が暮らす新築の家を見た。
若い女は、夫の子を生んだ。
誰一人生まなかった私は捨てられたのか?
夫の仕事は順調らしく、車が新しく大きくなっていた。若い女の車も大きな車で、後席にはチャイルドシートが備え付けられている。
玄関には若い女の趣味らしく、ディズニーのキャラクターの鉢が数個あり、その前に黄色い子供のプラスチック製スコップが転がっている。
傘立てに数本の傘があり、その上に緑の縄跳びが無造作にかけられている。家の中はぐちゃぐちゃに違いない。
「何をしにここへ来て立っているか?」
自分に聞いても答えは返ってこなかった。
「どうされたんですか?」
と、アパートの住人が私に尋ねる。誰が見ても不審なおばさんにしか見えないだろう。
化粧っけもなく、平日の昼間に、玄関の影から様子を伺っている私なのだ。
「いえ、別に。」
「そうですか?」
と通り過ぎてもらう。
新築の庭にはブランコがあり、その下には子供の靴が片方転がっている。
どうも、だらしのない女らしい。
ベランダには、子供の服と一緒に昔の夫の服が風に揺れている。
女の服も混ざっていた。
これが現実なのか?と思ったが、それ以上のことも思い浮かばなく、感情も動かない。
夫の服は、きっとくちゃくちゃになって、箪笥に押し込められているのだろう。たぶん。
料理はきちんとしているのだろうか?
心配などしなくて良いのにそう思った。
玄関が開き、若い女の影から、子供が出てくる。
もう4歳ごろか。夫の面影がうかがえる顔立ちで、若い女を見上げている。
若い女はふちの広い帽子をかぶり、今風の、若い婦人向け雑誌に載っているようなジーンズをはいた格好で。
どうでも良いのに、女の欠点ばかりを探しているような気がしてくる。その通りかもしれない。
女と子供は近所へ買い物へ行くらしく、スーパーのほうへ歩いていった。
私は鍵のかけられた玄関をただ見ている。
まだ、足は動きそうになかった。
何を見たいのか、どうして見たいのか、自分でも分からなかった。
ただ今日、車に乗ってここの近くのスーパーへ車を止め、そして隠れて見ている。それだけだった。
なおも、夫の家を見ていると次第に私の周りの空間が狭くなってきたような気がした。
世界が、近所のスーパーと、夫の新築の家と、その向かいの私が隠れているアパートの玄関だけになってきたような感覚を感じた。
どこかで仕事をしている夫。スーパーで買い物をしている女。その周りでじゃれている子供。隠れている私。
世界の中で四人だけしか居ないような感覚が迫ってきて、私の背中を何かがそっと押した。
私は玄関の前に立った。そして、何をしようというのでもなく私は玄関の中へ入った。
鍵はかかっていたが、私の足はすっと玄関の中へ入り体は遅れて通り抜ける事ができたた。
家の中に入ると女と子供の匂いが鼻についた。案の定、物があるべき所には無く、スリッパの中に子供のゴムボールが入り込んでいる。
家の中を一通り見て、最後に冷蔵庫を開けて見ていると、玄関の鍵が開く音がした。私はあわてて冷蔵庫を閉め、勝手口から急いで外へ出た。
気がつくと、私は車の運転席に座っていた。息が弾んでいた。
もう少しで見つかるところだった、と思ったが、勝手口から外へ出る際にもドアを通り抜けた事を思えば私は私の作った空間の主になれたような気がした。
あの空間が狭くなる感覚、その中では私は誰にも見られず、誰を気にする必要も無く何でも見ることが出来るようだった。
次があるだろうか?そう思ったが分からなかった。
私は、エンジンをかけ、車を発進させた。