赤い繭論初めに「変身」について 変身の歴史をみると、古くはシャーマン等が動物に変身し、宇宙的な力をその身に宿し、占い、治療などを行った。シャーマン達も、それを見守る民衆も、それは崇高で恐ろしい儀式として、また祭として認識していた。 それから反対に罰としての変身も語られるようになる。この順序は私の推測である。ここではあんまり重要ではない。 時は流れ、様々な神が生まれ、様々な変身が生まれ、ボーモン夫人『美女と野獣』、カフカ『変身』等が生まれた。その内、『スーパーマン』等も生まれた。『ウルトラマン』も生まれた。『ガッチャマン』『キューティーハニー』『コメットさん』等、私の少年期のヒーロー達は皆変身して、宇宙的な力を身に付けて悪と戦っていた。よく私たちも変身して遊んだものだった。 変身!と呪文をとなえると私だってスーパーマンになれた。 その内、変身ごっこにも飽きて、TVゲームの時代になる。 一九八〇年代。だがまだまだ子供達の変身するヒーロー達は語り続けられていた。ちょっと考えれば、あの『水戸黄門』だって変身するヒーローである。いわば、私たちの年代、一九七〇年生まれの子供達には、変身は〔ええもん〕の象徴であったのだ。すみからすみまで、全くその変身は疑いのないものだった。 そして一九九〇年代、あらためてその一九七〇年代の変身の周辺をよく見るとガツンとやられる事になる。 変身は現実として、公害により起こっていた。 中上健次は一九七四年七月号『早稲田文学』に たしかに小説で考えつくことよりも現実はもっと空想的であり、突拍子もないことがおきる。人間が虫になるとは、カフカの小説だが、人間が自由にうごくことを奪われ、言葉をはなすことを奪われ、ただの物質としてそこにある情態をわれわれはまのあたりにみせつけられた。もちろん、原因があり、そして否応なく認めざるをえない事実がある。だが水俣病とは、小説家の想像力をこえてある。そして、ひるがえって考えてみて、小説家の想像力は、いままでかつてこの事実、この現実にいきつくことがあっただろうか? いきつかなかったし、いきつくはずがない。と書きなぐっている。 では、安部の書く変身は何なのか?当然の疑問である。 『赤い繭』発表が一九五〇年であることから考えて、中上の言う変身とは考えられない。〔ええもん〕としてはスマートさがない。では罰としての変身なのだろうか。私にはいずれの変身とも違うように感じられる。 そこで『赤い繭』について、どの様に解釈ができ、どの様な意図がそこに込められているのか、その変身をどのように解釈すればよいのかを考察してみようというわけである。 なお、考える上で、保昌正夫の次の指摘を指針にした。 この本の初編の「あとがき」に作者が「壁がいかに人間を絶望させるかというより、壁がいかに人間のよき運動となり、人間を健康な笑いにさそうかということを示すのが目的でした。」と書いているのは、「おっかない」よりは愉しい一冊としてこれを受けとることへの希望を伝えています。 〔2〕 つまり、「健康な笑い」に誘われるには、いかに読めばよいのか、が「赤い繭」論の潜在的テーマとなっている。いささか変則の方法である。 が、いままで、この安部公房の作品は不当に歪められ、読後暗くなるような解釈しかなされなかった。またそれが安部公房観の主流を閉めている。 一石を投じることができればまずは成功だろう。 『赤い繭』論 ◎グロテスクなものを読む方法 一般読者は、現実離れした話が多くある、安部の作品をあまり好んでは読まない傾向があるらしい。その原因として かれらの知っている読書とは、 と高橋源一郎が述べている読書法も関係する理由の一つであるが、恐らく『赤い繭』に関しては、その理由は物語の形式に求められる。物語の形式とは山口昌男が言うところの ふつうの物語のパターンでは、この種の筋は次のように進行する。内の平和(均衡)が、外からの魔性の者の侵入によって破られる。秩序がエントロピー価の高い混沌によって乱される(危機)。魔性の者は秩序の側を代表する主人公に挑戦する。主人公は我慢に我慢を重ねるが、しかしそれも限度に達し反撃に転じる(対立)。主人公は勝利を収め、怨敵は退散し、秩序が回復される(均衡の回復)。 という「大衆的な物語」の形式から安部のこの作品はずれているのだ。 とすればどの様なずれなのだろうか。 安部の作品の特徴、傾向に、読者にヒステリー、または嫌悪感を起こさせる事がある。 安部は もっとも、抵抗感をあたえたのは、なにも今度のミュージカルス《『可愛い女』 松岡注》とはかぎらない。ぼくの書くものは、一部の人に、たいてい同様のアレルギー反応をひきおこすらしいのだ。〜略〜ぼくの作品は、リトマス試験紙のように、その人の慢性潜在性ヒステリーの度合を露呈してしまうのだ。〔3〕 と書いているが、ここで重要なのは、安部がミュージカルスつまり演劇をやっている事である。 要するに先に述べた対話がなされているのだ。 その対話は、「おれ」と「女」、「おれ」と我々読者の間になされる。 つまり「赤い繭」の物語の形式は、山口昌男の文章を借りて説明すると、 内の平和(均衡)が、「おれ」によって破られる。秩序がエントロピー価の高い混沌によって乱される(危機)。この危機に対して「女」は顔を「壁」に変へ、窓を閉めて回避するが、読者が回避するには読書中止、またはヒステリーを起こす事によって精神的回避をとるかの二つに道は分かれる。しかしそのヒステリーであるが、「おれ」が変身するグロテスクな様子(この描写力は最新のコンピューター・グラフィックスで造形された映像のリアルさに匹敵する)を見せつけられる段になると頂点に達して、無反応、すなわち精神的壁をたててしまう事になる。 それでは読む事は出来ないだろう。 ではどうすれば読めるのか。それは柄谷が 言語を「教えるー学ぶ」というレベルあるいは関係においてとらえるとき、はじめてそのような他者があらわれるのだ。 〔4〕 というレベルに我々が立つときはじめて可能となる。 ◎「おれ」の位置が示す事 『赤い繭』を考えるとき、読むとき、我々は何か論理学的、修辞学的催眠術にかかったように作品世界に引き込まれ、読み終わると、パチンと目が醒める。そしてふたたび無秩序な世界の構造を探求するかのように、それ、作品を分析しようとするわけである。だがここで、私は超現実によって今ある現実を新たに把握するシュールレアリスムの方法に沿って読んでみたい。それは、先に言ったレベルでの読みである事は言うまでもない。 さて「おれ」は 日が暮れかかる。〜略〜 おれは家と家との間の狭い割目をゆっくり歩きつづける。 と、仮設演繹推理をし、 偶然通りかかった一軒の前に足をとめ、これがおれの家かもしれないではないか。むろん他の家とくらべて、特にそういう可能性をにおわせる特徴があるわけではないが、それはどの家についても同じように言えることだし、またそれはおれの家であることを否定するなんの証拠にもなりえない。勇気をふるって、さあ、ドアを叩こう。 〔6〕 と実行する。そして家の持ち主、住人である「女」との問答すえ、 返事の代りに、女の顔が壁に変って、窓をふさいだ。ああ、これが女の笑顔というやつの正体である。誰かのものであるということが、おれのものでない理由だという、訳の分からぬ論理を正体づけるのが、いつものこの変貌である。 〔7〕 と「おれ」は考える。ここまでに、この『赤い繭』のポイントが全てあるといってもよい。 ここで間違うと解釈の方向が正反対になってしまう。その為、以上のストーリーとよく似た作品の短編『闖入者』と戯曲『友達』から考えていきたい。 余談であるが、先に「どれい狩り」などで指摘したとおり、安部はよく似たストーリーを繰り返し書いている。 さて黒井千次は 「闖入者」は、アパートの〈ぼく〉の部屋へ、深夜突然見知らぬ九人の家族が押しかけて住みついてしまう話である。一同は決して暴力的にではなく室内にはいりこみ、勝手に布団を片づけようとしたり、机の抽斗を開けてタバコを探し始めたりする。ここは自分の部屋だから勝手なことをするな、と怒る<ぼく>に対し、一家の父親は直ちに会議を開き、そこが彼等家族のものだ、と多数決できめてしまう。 と『闖入者』にたいして書いている。「逆寓話」とは、「ぼく」が「闖入者」によって自殺するのだがその結末に、 そこには悲傷を越える調べが鳴っていた。 〔9〕を感じとる、つまり、フィナーレの虚しさに超越的なものを見いだすことであるが、いささか深読みというものだろう。 これも余談になるが、むしろ「闖入者」によってもたされる無力感、悲傷を無化する、火もまた涼し的な精神的超越など無いことを読みとる方がよい。 次に『友達』は、田中喜一が 「友達」が闖入した家族の側に視点をおいているのに対して、「闖入者」は闖入された側に視点をおいているというちがい。 〔10〕と言うように、視点の逆転がある。この『友達』を三島由夫は 『友達』は、安部公房の傑作である。 と、恐ろしいほどの文章力で『友達』を再現している。 それはさておき、二つの話を形式化してしまえば、『闖入者』は「ぼく」の絶望的な恐怖を描き出す事によって、我々の内に「闖入者」への殺意、言ってみれば、我々読者は「ぼく」に成り変わり「闖入者」を撃退したい欲求にかられる。が、その欲求は達成されず、読者の内に不満、エントロピーは増加するばかりである。 一方『友達』は闖入者である家族への讃歌と言ってよい。我々読者はまさに、いじめ殺す事、エントロピーの解放に快感をおぼえもする。以上の事から『赤い繭』の「おれ」は「闖入者」である、と早合点してはならない。なぜなら「おれ」は一人である。つまり民主主義が多数決、多によって決まり少に強制できる一種の権力システムである以上その制度上の「おれ」と「闖入者」は、常に対立の関係にある。要するに「おれ」は「闖入者」のように見えるし、闖入された「ぼく」にも見えるという両義的な存在なのである。 そこから「おれ」は、安部が この戯曲は、小説『闖入者』(一九五二年)をもとにして書いた。しかし、テーマもプロットも、まったくちがっている。脚色と原作が同一人でなかったら、二人は生涯、許し合えない敵になってしまうだろう。私が私自身であつたことを感謝する。 〔12〕という「私」、つまり安部公房と言えるのではなかろうか。私はここで、当時の安部の実生活での活動を指摘するつもりはない。要は、考え方、思考が安部公房なのではなかろうかと言う事だ。その思考は右手で円を描き、同時に左手で三角を描くときの様な混乱を我々にもたらすかもしれない。 では、闖入者であり闖入される側でもある「おれ」の思考は、一体どうなっているのか。それは次のように考えればよい。 我々は通常、家、アパート等に住んで、家を所有している。だが、そうであろうか。私は今、ペンを持って書いている。このペンを私は所有している。だが私の手で他の人の手を持つ場合、その時その他人が私の手を握り返したからと言って、即その人と意志の疎通がなされたと考える事は出来ない。なぜならその人はただ単に反応を示しただけであって、握手と言うサインを意図していないかも知れないからだ。もしかしたらその人にとっては、握られた手を握り返す事は戦闘の意味を示すのかもしれないし、我々の想像の範囲を越えた意味を持つのかもしれない。我々がその様に決定できなくなる思考を持つ時、そこに他者が現れる。 要するに如何に我々が独占的に所有しようとしても出来ないもの、それが他者なのである。そして常にその他者を見いだす限り、我々は、なにものをも独占的には所有していない。いや、すること事態が不可能なのだ。 このような所有の関係を隠蔽したもの、忘れたものが先の私の手はペンを持つ、所有していると言う事なのである。つまりその関係は絶対的では決してなく、絶えず不安定に揺れている。その不安定さを確実なものにする為に、所有権が生まれ法律が作成され証明されなければならなぬのである。 ここで思い出して欲しいのは、法律というものが先に説明した貨幣と同様な役割を演じている、と言う事だ。 安部は どんな安定も、絶対的ではない。〔13〕と言っている。 安部、すなわち「おれ」の思考は不安定な関係の中にあるのだ。 と言っても、しかし我々は今所有しているものをそのような眼差しでみるだけである。あるいはある種の諦観を身につけるかもしれない。そして恐らく我々は実際に「おれ」がドアを叩けば閉ざしてしまうのだ。先の比喩で言えば円ならば円しか描けない感覚だ。だがその時、我々の根底の部分で拒否してしまうそこにこそ我々にとって「おれ」の思考が他者性をおびる理由があり「おれ」の超現実性がある。 もう一度言うが「おれ」は一人でありその事は我々と「おれ」が対等の立場にいる事を示し、同時に排除しようと思えば我々は簡単に「おれ」を排除出来る。 では、その不安定な関係とは物理的にどこに見られるのか? と思われるかもしれないが安部が ティンベルヘンの『動物の言葉』によると、ある種の鳥は自分の巣の周囲にきまったなわばりをもっていて、仲間の鳥と争う場合、なわばりの中ではかならず勝ち、その外ではかならず負けるという。強い弱いではなく、一種のルールになっているらしい。という、境界にある。勿論、現在、そのような事は構造主義をかじっていれば誰もが言うことにすぎない。注意すべきは(現代は安定した空間などはどこにもなく、あらゆる場所が「境界線上」であるような気もしないではない。)という箇所であり、この時すでに安部のなかに現代の都市のイメージが生まれていると考えられることだ。それを言い換えれば、外部と内部というような明確な区別がつく空間がどこにもないという事であり、それは浅田彰が指摘した近代のモデルとしてのクラインの壷、またはメビウスの輪に例えられる。そしていかなる者も共同体、メビウスの輪から逃れられない以上「おれ」もまた他者であり他者ではないと思われるのだが、先にも言ったように、「おれ」の思考が一般的な思考からみれば他者なのである。 そのように考えれば、冒頭が深い意味と作品の方向性をも示している事は見逃すわけにはいかないだろう。 「日が暮れかかる。」とは時間の境界であり、「家と家との間の狭い割れ目」とは空間の境界なのだ。 要するに物理的にも思考的にも「おれ」は不安定な関係の中のどこかにいるのである。 では本来の不安定とはどういうものなのだろうか。それは、それが安定の対立概念であることからも解るように、我々のこのような考えを根底から覆すもの、今の、この思考全てを覆す様なものである。そしてそれは不安定な世界のどこかにいるのであり、我々にはとうてい予想などできるものではない。 その様な言い方をすると形而上学っぽくなるのだが、決してそうではなく我々がそれによって、例えば事故によって大打撃を受けることが事実であるように現実に起こるものなのである。 ◎作品論のコンテクト。なぜ所有なのか? そもそもなぜ安部が一九五〇年代にこの様な所有というテーマを書いたのか。そしてなぜ安部が、核戦争にこだわり続け、『方舟さくら丸』(一九八四年)という巨大な核シェルターに纏わる小説を書いたのか。そこから考えなければ我々戦後生まれには解らぬかもしれぬ。そして恐らく、その不可解なことを理解することがこれらの超現実がどのような現実を照らしだしているかを知る最善の方法である。 安部は『けものたちは故郷をめざす』(一九五七年)で、満州の瀋陽から、一人の少年が、故郷であるはずの日本をめざした話を書いている。そこでの少年「久木久三」の日本への道中は、自分の生命は自分で守るしかない極限状況、正と死の境界である。 物心つかないうちに「渡満」してそこで成長した安部公房たちの世代にとって「日本」とは、「両親の話によって想像しうるか、書物によって知りうる土地に過ぎなかった。異邦人が存在せず、生命と財産が保護され、自己の心情が風物と一体化しうる両親の『故郷』は、彼らには未知の『異国』に等しい」(吉田 生)存在でしかない。〔15〕と吉田永宏が吉田 生の言葉を借りて述べている事で重要なのは、「生命と財産が保護され」る場所、それが故郷であったのだと言う事である。だが「久木久三」はその故郷を目の前にして上陸できず船内の一室に閉じこめられて、発狂寸前となる。 ・・・・・ちくしょう、まるで同じところを、ぐるぐるまわっているみたいだな・・・・・いくら行っても、一歩も荒野から抜けだせない・・・・・もしかすると、日本なんて、どこにもないのかもしれないな・・・・・ おれが歩くと、荒野も一緒に歩きだす。日本はどんどん逃げていってしまうのだ・・・・・ 一瞬、火花のような夢をみた。ずっと幼いころの、巴哈林の夢だった。高い塀の向うで、母親が洗濯をしている。 彼はそのそばにしゃがんで、タライのあぶくを、次々と指でつぶして遊んでいるのだった。 つぶしても、つぶしても、無数の空と太陽が、金色に輝きながらくるくるまわっている。 そしてその光景を、塀ごしに、もう一人の疲れはてた彼が、おずおずとのぞきこんでいるのだ。 どうしてもその塀をこえることができないまま・・・・・ こうしておれは一生、塀の外ばかりをうろついていなければならないのだろうか?・・・・・ 塀の外では人間は孤独で、猿のように歯をむきだしていなければ生きられない・・・・・ 〔16〕 と考えざるを得なくなる。この『けものたちは故郷をめざす』は、一九四六年、安部二二歳のときの 市内を転々と移住。サイダーを製造して生活費を得る。年の暮れ、やっと引揚船に乗船し、満州を離れる。船中でコレラが発生、佐世保港外に一〇日近くも繋留される。この時の異常な体験が長編小説「けものたちは故郷をめざす」の背景となる。 〔17〕 と谷真介が言うように、その生命、自己を守る人は自分しかいないという体験(実際、安部の父は一九四五年八月に発疹チフスで死んでいる)を元にしているのだが、守ってくれる人はどこにもいないという危機感は我々の世代、言うなれば、私の中にも全くない。 安部公房の体験は確かに所詮私とは無関係でしかありえない。 ここで平和活動をするつもりは全くないが、核という兵器があり、その時代に生きている我々をその核から誰が守れるのだろうか。誰もいないことは確かだ。 戦後生まれの村上春樹はティム・オブライエン『ニュークリア・エイジ』の訳注で 私(村上)はこのキューバ危機のとき十三歳だったが、他の多くの日本人と同じように、それほどの恐怖を感じなかった。おそらくキューバという国があまりに遠くにあったせいだろう。しかしキューバ危機がアメリカ人に与えた衝撃は、本書にも見られるように強烈なものだった。自分たちはあのとき破滅の瀬戸際にいたのだという認識は潜在的記憶として多くのアメリカ人の胸に残った。 ソウ゛ィエト人の胸にも残った。そのショックが両国の関係を幾多の曲折を経ながらも、雪解け、デタントという長期的な和解へと導いていったと解釈してもいいだろう。 これはたしかにケネディ政権の逆説的功績であった。 と書いている。そのリアルさが我々の世代には全くない。 だが安部が引揚船の中で異常なほどのリアルさでもってロバート・ケネディが述べるその恐怖と同質の、すなわち、誰も守ってくれる者はいない、という恐怖を経験したと想像することは容易である。それは一人の人間にとっては不幸かもしれないが、作家安部公房にとっては欠くべからざる出来事であろう。 安部は『死に急ぐ鯨たち』所収のインタビューで次のように語っている。 ところで君も、第三次世界対戦はかなりの確率で起りうると思っているでしょう。ぼくも思っている。偶発核戦争の可能性は、いまこの瞬間に起きても不思議はないと言っている学者もいるくらいだ。でも、こういう賭を受ける気はしないだろう。それじゃ、五分以内に核戦争が起きるかどうか、起きなかったらぼくに十万円はらう。まず断るだろうね。むしろ起きない方に賭けるだろう。では何分だったらいいのか。五分以内に賭けられないのなら、たぶん一時間でも同じことだろう。十時間でも同じだろう。一年でもけっきょく同じじゃないかな。しかし、百年と言ったら、これはもう賭けにはならない。死んでしまっているからね、両方ともが。 以上の事は、安部がなぜ所有にこだわったのか直結するだろう。 戦争とは国家が個人の生命を独占的に所有し、兵士とする事であり、その独占的所有を拒否するならば非国民と呼ばれ、すなわち国家によって殺される事に他ならない。そして核戦争、否、既に国家が核を持っている事が、その国家意志によって独占的に我々を所有していることを意味している。その中での個人的意志はあってもないものとなる。ボタン数個で核が発射される事には大きな意味があろう。そしてそこに、所有に関するメッセージがある。 道具が身体の延長であるように兵器も身体の延長である事に変わりはない。そしてその所有するという概念の元をたどれば手でつかむ事からはじまっている。獲物をつかみ食べるという生活の中で、それは大切な概念だったに違いない。しかしそこには所有物に対しての恐れがあった。それは我々が獲物を創造したのではないという思考だったのかも知れない。どのみち我々は、握る場合、どちらかが一方的に持つ持っていると考えるとき、そこに持つ事が出来るものが存在しているから持てるのだと言う事を忘れているか、学ばなかったか、気付こうとしないのである。そして実際、今の多くの思考がそうなっているのではあるまいか。 誰かのものであるということが、おれのものでない理由だという、訳の分からぬ論理を正体づけるのが、いつものこの変貌である。 〔20〕の「この変貌」は「女の顔が壁に変わって、」をさしている。そこから「壁」とはそのような思考と言えるであろう。 そこには当然の事ながら他者は排除されている。それがどんなに恐ろしい思考であるかは先に述べたとおりである。 ◎変身における妙 私は「おれ」の変身シーンになぜかしら、ある笑い、を感じざるを得ない。それは一体何なのだろうか? ここでその笑いを浮き彫りにしてみたい。しかし同時に足が糸へと変化した、その糸が一体何なのかを知らなければなるまい。 さて、前述した事をもう一度いう。 さまよえるユダヤ人とは、すると、おれのことであったのか? 〔21〕 と「おれ」が自問するとき、我々はその後に「日が暮れかかる。おれは歩きつづける。」と書かれているからといって、または「おれ」が「おれ」の「家」に化した事を見て、二千年来流浪しつづけイスラエルを建国したユダヤ人だと言ってはならぬ。それは自問を自問として読む事を無視する事に他ならない。つまりその自問には安部が『内なる辺境』で語り得なかった「独特なニュアンス」が含まれているのだ。 「おれ」は他者であり同時に「物」なのだ。そしてこの自問は、「おれ」が、自分が我々からすれば他者である事には無意識である事をも示す。 そして「おれ」は「赤い繭」に変身してゆく。その過程は おや、誰だ、おれの足にまつわりつくのは? 〜略〜 糸をたぐるにつれて、おれの足がどんどん短くなっていた。すり切れたジャケツの肘がほころびるように、おれの足がほぐれているのだった。その糸は、糸瓜のせんいのように分解したおれの足であったのだ。 〔22〕 と、「おれ」の無意識の領域で始まり、それに気づく形で始まる。 自問、つまり思考に含まれる「独特なニュアンス」「他者」性「物」が無意識の領域から意識上に立ち現れるのである。そこで「おれ」は「こいつは妙だ。」と言う。その言葉は我々に『デンドロカカリヤ』の「コモン君」が なんと、植物になっているんだ! 〔23〕と、もらす事とは違い、全く驚いたりはしていない事を、まして当人にとって恐怖ではない事を示している。例えるならば「おれ」は息を吸う事を意識するかのように「こいつ」を意識するだけである。 息はふつう意識してはしない。寝ているときも起きているときも行われる生存システムである。しかし息を意識した時(深呼吸は意識的に呼吸をする事であり、呼吸を意識する事ではない)どうだろうか。とたんに息を吸って吐くリズムが狂い咳込んでしまい息を吸うことも妙だが、さらにリズムが狂うと咳をするというさらに無意識的な妙なシステムに感心したりする。つまり「こいつは妙だ」と言うとき「おれ」は安部が『ゴドーも来ない場所』で述べる 深夜、水道の蛇口から流れる水をガラスのコップに注いで飲みながら、ふと「鉱物」を飲んでいるのだと自覚することがある。すると、それまではさわやかだった透明さが、急になじみにくい異物に見え、それを口から流し込んでいる自分が、化物じみたものに感じられはじめるのだ。 〔24〕という文脈上で、「コモン君」が認識したような「化物じみたもの」として意識しているのではなくて「おれ」は「こいつ」を自然として認識しているのだ。 勿論その根底には花田清輝の思考を徹底した 動物は植物の例外的な偶然であり、植物は鉱物の例外的な偶然の産物にいすぎないのだ。 〔26〕 と言う安部の思考があるのだが、その自然は先にも述べたように認識したとたんに自然ではなくなるような客観的な運動である。それは安部が 「物」の発見は、まさに無限の追求なのである。 〔28〕 と言う「物」と同じく客観でなければならないが、「おれ」は主観で客観を認識してしまう。そこに「おれ」の「妙」という意識が生じるのだ。 それが、その意識が我々読者を笑いに誘っているのだ。 なぜなら先に私は「おれ」は「物」であると言った。つまり「おれ」は我々の主観ではなく、我々の意識の外にある客観的存在である。「その糸」は我々読者にとっては妙であったとしても我々からみた「おれ」にとっては自明の事柄である(つまりその事は、我々が「おれ」を不可解ながらもその存在を認めたという事になる)はずなのだが、「おれ」はそれを「妙」と言うのだ。そしてその後に「おれは事態を理解した。」とまである。 例えてみれば、天使が自分の翼に対して「妙」だと、とぼけて言っているのと同じことなのだ。 この笑いは自明の事柄を自明であるが故に繰り返す事、パロディーなのである。 勿論ここで、われわれがこの変身を最初みたときには驚くという事を言ってもよいが、「赤い繭」から一歩はなれて安部公房の他の作品と共に見たばあいも、我々読者は「赤い繭」の変身はパロディー化されているのに気付かざるを得ないだろう。それは、お決まりなのだ。 余計かもしれないが、それは、もしウルトラマン役の隊員が、一番最初に変身する時、「こいつは妙だ」とすまして言っている情景があれば、TVを見ている者が「にやり」とするようなものだ。 ◎繭とは 自然、客観を「ねばりけのある絹糸」として引っ張りだしてきた安部はいよいよそれを鋭い理性でもって形作る、すなわち造形するという実践 実践が、現実の変革である以上、認識が深化しなければいけなかったように、当然実践の深化も要求されてくるはずではないか。なんでもやみくもに動きまわればいいというのではない。行動の中に内在する目的(しばしば無意識的であるかもしれないが)を、認識の力をかりて引き出し、行動にプログラムを与えて、理性的なものにしなければいけないのだ。実践の深化によって、その目的が完了されなければいけないのだ。 〔29〕がなければいけない。 それも早く、淀みなく実践しなければならない。そして天啓のような発想、繭!が浮かぶ。だがこの変身の規則は安部が 内的軋轢の激しさがデフォルマシォンの価値を定めるものであって、それ以外にデフォルマシォンの規則などあり得ない。 〔30〕と説明する、内的軋轢が噴出した瞬間に生じるものであって、決して前もっては決められてはいない。それは「命がけの飛躍」の中に生じるものなのである。 変身の規則は発想を思いついたときに、後方に向けられた分析の眼によってはじめて見いだされるものなのだ。本当のところ安部は繭というオブジェを先に思いつき、絹糸へという変身の行程はあとからつけ足されたものかもしれないのである。勿論作品の進行時間順にある規則に従って発想されたかもしれない。しかし、いまのところ私には繭へと変身していく行程の「おれ」の実況中継には先に言った笑いと、語られる「おれ」がとても疲れているという事以外はなにも読みとる事はできない。そしてその実況中継はついに繭を描き出す。 そして、ついにおれは消滅した。 と言う時、谷川渥がいう「最終的アイロニー」〔32〕なのではなく、ヒューモアがそこにはあるのだ。 それは所有というテーマの実践なのである。つまり「おれ」はなにも独占的に所有する事のない境界、不安定な場所にいて、家などを独占的に所有することはできず、独占的にそれを所有したいという思い込みすらも、それによって規定されている、と実況中継者「おれ」が言うヒューモアなのだ。 もう一度具体的に説明すると、我々読者に不快感をもたらした「おれ」の思考は前にも述べたとおり、我々が考える所有、すなわち二つの間の不安定な繋がりを片方が無視するか錯覚するかして、独占的に己の手のうちに握ることとは違う。 この一文を忘れてはなるまい。 せめて誰のものでもないものが一つくらいあってもいいではないか。 〔33〕と言うように「おれ」は二つの間の不安定な繋がりを深く認識していて、境界上にいるのだ。 あとはある目的を達成しなければならないのだが、その目的とはその認識の上に立った、不安定な所有を示すことである。 つまりこういう事だ。 「おれ」は何も所有してはいない。勿論ここで「おれ」は我々読者に、我々も何等所有してはいないことを確認させている。では我々と違う「おれ」は、どの様な意志でもって、ものと関わるのか。そこには持っているものは持っていないというパラドックスの関係が明確に示されていなければならない。 そして「おれ」は変身しはじめ繭になる(目的の達成)。我々読者にはいますこし到達点が解らないが、解りにくいのは、文の主語と実況中継する「おれ」とがまじりあってしまうのと、指示語がぼやけている為である。()で挿入してみれば ああ、(「おれ」は)これでやっと休めるのだ。夕陽が赤々と繭(「おれ」)を染めていた。これ(「おれ」)だけは確実に誰からも妨げられないおれの家(「おれ」)だ。だが、家(「おれ」)が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない(と実況中継者の「おれ」が言っているのだ)。つまり、メタレベルの「おれ」は、「おれ」の家、すなわち「おれ」を独占的に所有した(言い換えれば、メタレベルの「おれ」は下位の「おれ」を持っているという自己の二重化であり、もしこの作品がここで終わってしまえば『終わりし道の標べに』の「私」と同様になってしまっただろう)。だが実況中継者の「おれ」によって、下位の「おれ」・家・所有物を占有するメタレベルの所有者・「おれ」などいないと超越論的な批判がなされているのである。そしてこの目的の完了は、柄谷行人が『ヒューモアとしての唯物論』で たとえば、自分は世界(歴史)の中にあって、それを越えることはできず、越えるという思いこみさえもそれによって規定されているという、超越論的な批判こそが、「唯物論」であり、それは何よりもヒューモアなのだ。ここで、ヒューモアを解さない者は、唯物論から自己や主体の契機が出てこないではないかと生真面目に反問するだろう。しかし、主体を否定しているのはまさに主体なのである。 〔34〕 と指摘する唯物論でありヒューモアなのである。つまり安部が 観念的といわれたが、どう観念と闘って観念のウ゛ェールをはぐかという、自分の中へ唯物論を確立するストラッグルだつたと思うんだ。そして行きついたのが「壁」だつた。 〔35〕と言った唯物論が、ここにきて初めて開花したと言ってよかろう。そして 彼の息子の玩具箱に移された。 〔36〕 という最後のフレーズが意味するのは、「おれ」のヒューモアを解さない「腹をたてた」「彼」が、やはり独占的に所有してしまう、という事を示しているである。 さて一体我々読者は、どうするのであろうか。 笑えたであろうか。 出典・注 初めに「変身」について 〔 1〕中上健次『鳥のように獣のように』195-200頁(講談社文芸文庫 一九九四年) 〔 2〕保昌正夫・坂田早苗『壁』をめぐって(往復書簡) 『国文学 解釈と鑑賞』36頁(一九六九年九 月) 『赤い繭』論 〔 1〕高橋源一郎『ジェイムス・ジョイスを読んだ猫』34-35頁(講談社文庫 一九九〇年) 〔 2〕山口昌男『文化の詩学』264頁(岩波現代選書 一九八三年) 〔 3〕安部公房『砂漠の思想』261頁 〔 4〕柄谷行人『探究T』8頁 〔 5〕安部公房『壁』220頁(新潮文庫 一九九三年) 〔 6〕安部公房 同書220-221頁 〔 7〕安部公房 同書222頁 〔 8〕黒井千次『新潮』82頁(一九九三年四月特大号) 〔 9〕黒井千次 同書 83頁 〔10〕田中喜一『国文学 解釈と鑑賞』129頁(一九七四年三月) 〔11〕三島由夫『国文学 解釈と鑑賞』162-163頁(一九七一年一月) 〔12〕田中喜一『国文学 解釈と鑑賞』128頁(一九七四年三月)の次の箇所からの引用。(周知のように、 戯曲「友達」には先行作がある。単行本『友達・榎本武揚』の「後記」で作者はこの両者の関係に ついて「〜略〜」と書いてある。)の〜略〜の部分。 〔13〕安部公房『砂漠の思想』36頁 〔14〕安部公房 同書169-170頁 〔15〕吉田永宏『ユリイカ』232頁(青土社 一九九四年八月) 〔16〕安部公房『けものたちは故郷をめざす』242頁(新潮文庫 一九七四年) 〔17〕谷真介『砂漠の思想』の年譜 443頁 〔18〕村上春樹訳 ティム・オブライエン『ニュークリア・エイジ』581-583頁(文春文庫 一九九四年) 〔19〕安部公房・聞き手栗坪良樹『死に急ぐ鯨たち』105頁(新潮文庫 一九九三年) 〔20〕安部公房『壁』222頁 〔21〕安部公房 同書222頁 〔22〕安部公房 同書223頁 〔23〕安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』9頁 〔24〕安部公房『安部公房全作品・15』96頁 〔25〕中沢新一『はじまりのレーニン』104頁(岩波書店 一九九四年六月) 〔26〕安部公房『笑う月』84頁(新潮文庫 一九九三年) 〔27〕中沢新一『はじまりのレーニン』106頁 〔28〕安部公房『安部公房全作品・13』147頁 〔29〕安部公房『安部公房全作品・14』109頁(新潮社 一九七三年) 〔30〕安部公房『安部公房全作品・13』154頁 〔31〕安部公房『壁』224頁 〔32〕谷川渥『ユリイカ』98頁(一九九四年八月) 〔33〕安部公房 同書222頁 〔34〕柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』125頁(築摩書房 一九九三年) 〔35〕安部公房・針生一郎 対談『新日本文学』149頁 〔36〕安部公房『壁』224頁 この論文は一九九五年に修士論文として提出した一部に、大幅に加筆訂正を行ったものである。 © 2002 I Love Balard. 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