◎一九四七年『終わりし道の標べに』の思想的決意からの脱出注記せねばならないのは、安部公房において、人間中心主義からの脱却、自己対話(モノローグ)からの脱出とは、実存主義、即自・対自の意味に於けるモノローグ、『終わりし道の標べに』の主人公「私」の思考からの脱出をも意味する事である。 次『終わりし道の標べに』を読むとよくわかるだろう。 かわりに、すぐ足元の、凍ったまま融けた雪のくぼみから、小さな緑の若芽がひとつ、やましげに首をもたげている。・・・・・いや、やましかったのは、むろん若芽のほうではない。その若芽によって引きおこされた、鋭い感覚・・・・・悔恨の情・・・・・植物のみがもつ、あの完璧な自己閉鎖と自己目的的な充足に、私の内部の動物が、思わず羨望のうめきをもらしてしまったのだ。すると私は、単に植物に変身するための呪文を求めて、こんな地の涯にまでやって来たのだろうか。いや、そんなはずはない。存在以外に目的をもたない植物には、当然手段もないはずだ。手段を必要としない以上、行為と認識の分化もありえまい。植物として自己を占有するためだけなら、狂人にでもなればそれですむことだ。動物のままで、自己を占有しようとしたからこそ、私は自分自身を故郷から追放しなければならなかったのである。やはり、動物にだけ可能な、この分裂の苦悩と、敗北に、私はあえて誇りをもちたいと思う。 〔19〕 それに ここはもはや何処でもない。私をとらえているのは、私自身なのだ。ここは、私自身という地獄の檻なの だ。いまこそ私は、完璧に自己を占有しおわった。もはや私を奪いにくるものは何もない。おまえの思い出さえ、すでに私には手がとどかないものになってしまった。 手を打って快哉を叫ぶがいい。いまこそ私は、私の王。私はあらゆる故郷、あらゆる神々の地の、対極にたどり着いたのだ。 と、言うのは、花田清輝が意味する近代が人間中心主義、自己対話(モノローグ。これを柄谷行人にならって弁証法と呼ぶ。または、二元論と呼ぶ。)である限り、ちょうど柄谷が、 そこにどんな根源的な知があろうと、私と一般者しかないような世界、あるいは独我論的世界は、他者との対関係を排除して真理(実在)を強制する共同体の権力に転化する。西田幾多朗やハイデッカーがファシズムに加担することになったのは、偶然(事故)ではない。〔21〕と指摘するファシズムへ向かわざるをえない為に、『終りし道の標べに』の「私」は、浅田彰が『構造と力』で ドゥールズ=ガタリの言葉を借りるなら、「スケープゴートの肛門が、王の、あるいは神の顔と対立する」のである。 〔22〕 と述べる意味で、自らスケープゴートを引き受けざるを得ない事を示している。 それは『内なる辺境』で安部が その毒素は(ユダヤ人アレルギーを起こす毒素 松岡注)、ユダヤ人という外からの侵入者によって持ち込まれたものではなく、じつは本物の国民という「正統神話」自身の内部からにじみ出して来た、おのれの体内の毒だったのだから。ユダヤ人アレルギーも、けっきょくは一種の自家中毒にほかならない。国家が、「正統神話」によりどころを求めるかぎり、異端の毒は永遠にでも再生産されつづけることだろう。そして、そこにたまたま、ユダヤ人がいたというわけだ。 と言う、前者のユダヤ人を自ら引き受ける事と同義である。 では安部が言う「独特なニュアンス」とは何であろうか。安部はそれを『内なる辺境』で その相違は、たぶん、ほかの洛印がかなり無性格で消極的なのに対して、はるかに明瞭な輪郭と、時代に対する積極性を持っている点だろう。 〔24〕 と、しながらも「ユダヤ的なるもの」の現象的な物事しか語られていない。本質は、直感的に感得されるだけで、明確に語り明かせないでいる。恐らくその理由は じっさいすぐれた作者は、ふかい読者の研究の上に作品をつくりあげています。すぐれた作者は、心の中にもう一人の自分、読者である自分をつねに意識していて、創作はそれとの対話の上で、弁証法的にすすめるようにしています。〔25〕 という安部の論理的思考の限界に求めてよい。 だが我々読者は、安部が語れないと言う安部の「作品」によって知る事が出来るはずである。 例えば、『他人の顔』における「他人」がそれだ。 出典・注 〔19〕安部公房『終わりし道の標べに』160頁(新潮社 一九七七年) 〔20〕安部公房 同書167頁 〔21〕柄谷行人『探究T』250頁(講談社学術文庫 一九九三年) 〔22〕浅田彰『構造と力』191頁(勁草書房 一九九三年) 〔23〕安部公房『内なる辺境』88-89頁(中公文庫 一九九三年) 〔24〕安部公房『内なる辺境』89頁 〔25〕安部公房『安部公房全作品・13』116頁(新潮社 一九七三年) |