シュールレアリスムとは

◎シュールレアリスムとは?

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  安部が『実験美学ノート』で

発狂のもつ奇怪な幻に、意外な現実批評を感じる。(シュールリアリスト)〔10〕

と言う時、我々は自動記述とされるシュールレアリスムの方法論を単なる方法ではなく、思想として知らなければならない。
 では、どの様な思想なのか?
 花田清輝が安部に影響を与えたとして

 ルネッサンス以来、ヨーロッパでは、生命あるものを極度に尊重する傾向があり、鉱物よりも植物が、植物より動物が―――殊に動物のなかでは人間が、一段とすぐれたもののようにみなされてきたが、 むろんこれは人間的な、あまりにも人間的な物の見方であり、近代の超克は、われわれが、こういう人間中心主義を清算し、無性物にはげしい関心をもち、むしろ、鉱物中心主義に転向しないかぎり、とうてい、実現の見込みはなかろう。〔11〕
          
という事が批評家の間で知られているが、それは、渡辺広士の言う「観念を具象化する発想」〔12〕ではない。
 安部は

やっぱり「デンドロカカリヤ」だな、あのころやつていたのは、いかにさまざまな現象から ウ¨ェールをはぎとるかということ。観念的といわれたが、どう観念と闘って観念のウ¨ェールをはぐかという、自分の中へ唯物論を確立するストラッグルだつたと思うんだ。そして行きついたのが「壁」だつた。S・カルマ氏の犯罪というやつ。〔13〕

と言っている。
 では「観念のウ¨ェールをはぐ」とはどういう事か?
 我々は通常、森に精神的安定を見いだす。植物に心のやすらぎを感じる。だがそれは植物を人間のアナロジーで把握している事を示し、同時に、植物の擬人化を生じさせる。例えば老木に哲学者を見いだしたり、若草に、力溢れる若者を見いだす事である。そこで、我々は植物と調和しているかの様に考えるが、それは 単なる自己対話、モノローグ、にすぎない。つまり「人間中心主義」である。その限りに於いて我々人間は、植物を見てはいない。
 きちんと?『デンドロカカリヤ』を読むと、『デンドロカカリヤ』は、作品の冒頭に書かれる通り
 
コモン君がデンドロカカリヤになった話。〔14〕
であり、デンドロカカリヤという植物がコモン君という人間になった話ではない。コモン君は植物人間ではなく人間植物なのである。その為『どれい狩り』『ウエー』で登場した一般的等価物、貨幣は「政府」として作品に登場し(作品成立年代は逆だが)

「しっ!誰にも言っちゃいけませんよ。貴方方はねらわれているんだ。商売人にね。しかし私のところは違う。安全だ。政府の保証ですからな。私に目星をつけられた人々はみんな幸福ですよ。」〔15〕

と「K植物園」によって、温室に監禁せねばならぬのである。実に『人間そっくり』の主人公が精神病院送りになった理由と、同じなのだ。その行為は近代が、動物を動物園に、狂人をR・Dレインが

医師が入りこんではいたが、それは狂人のためではなく、狂気という危険な伝染病がうつらないように、礼儀正しくなった囚人を守るためにである。正常者と異常者を分離するという、人間性にたいするいいようのない不正義を要求した最も圧迫的な諸改革の一つに、十八世紀のヒューマニストたちのほとんどが賛同したのだ。十九世紀の精神病院はほとんど、このヒューマニタリアンが促した刺激に由来している。    〔16〕

と述べるように精神病院へ監禁した事、またはせねばならなかった行為として読んでもよい。そして

ああ、コモン君、君が間違っていたんだよ。あの発作が君だけの病気でなかったばかりか、一つの世界と言ってもよいほど、すべての人の病気であることを、君は知らなかったんだ!  そんな方法で、アルピイエを亡ぼすことはできないんだよ。ぼくらみんなして手をつながなければ、火は守れないんだ。〔17〕

と、書く安部は世界の無境界化によって起きる不安、恐怖を排除せずに直視しなければ、「火」は、人間は、人間でなくなると考えていると解釈してよかろう。
 安部は

  現実を直視すればするほど、新しい恐怖物語の必要性が痛感される。〔18〕

と言っている。
  要するに、シュールレアリスムは超現実と訳されるように、今の現実を超現実により批判し、現実認識を新たにする為の、現実把握を主とする思想である。それは唯物論に限りなく近い。

出典・注
〔10〕安部公房  同書79頁
〔11〕花田清輝『ア ァンギャルド芸術』51頁(講談社文芸文庫 一九九四年)
〔12〕渡辺広士『安部公房』19頁(審美社 一九七六年)
〔13〕安部公房・針生一郎 対談『新日本文学』149頁(一九五六年二月)
〔14〕安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』8頁(新潮文庫 一九九三年)
〔15〕安部公房 同書28頁
〔16〕山本哲士・福井憲彦訳 R・Dレイン『正常と《狂気》ー狂気の発明ー』 『ミシェル・フーコー    1926-1984権力・知・歴史』238頁( 新評論 一九九二年)
〔17〕安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』32頁
〔18〕安部公房『安部公房全作品・15』265頁(新潮社 一九七七年)
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