安部公房の「壁」における「望遠鏡」の意味

安部公房の「壁」における「望遠鏡」の意味

――「洪水」論 の前に――

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 「壁」の中で、望遠鏡が重要な装置として表立って使われている作品は「洪水」「バベルの塔の狸」といえるだろう。 「洪水」では
 ある貧しい、しかし誠実な、哲学者が宇宙の法則をさぐるために、屋上の平屋根に一台の望遠鏡を持ち出して、 天体の運行をさぐっていた。〔1〕
そしてその「哲学者」が「何気なく」向けた所に「一人の労働者」が見え、さらに見続けていると
 不意に輪郭が不明瞭になり、足のほうからとろけ、へなへなとうずくまり、服と帽子と靴だけを残してぼって りとした粘液のかたまりになり、最後に完全な液体に変って平たく地面に拡がった。〔2〕
という箇所。 「バベルの塔の狸」では  
 ぼくは望遠鏡から離れました。柩に乗るつもりで。しかし肉眼では、柩はやはり星の間の黒い一点なのでした。 急いでまた望遠鏡をのぞきこみ、 「どうやって乗るの?」 「どうやってって、」ととらぬ狸は不機嫌そうに言いました。「眼鏡を離しちゃ駄目じゃないか。そのまま乗ればいいんだよ。」 「だって君がすぐそこにいるように見えるのは、ただ見えるだけで、物理的には・・・・・。」 〜中略〜 「白紙委任状を想出すんだね。君の理屈はまるで、共産主義者が、ぼくの生まれは下賤の身でなどと言い出すようなものだ。さあ、手を借してごらん、眼鏡をはずさなければ、それ、とどくだろう。」  ほんとうに、ぼくはとらぬ狸の手にふれ、その手に導かれて、柩に手をかけることができるのでした。〔3〕
という箇所。  望遠鏡は、「洪水」では人間が液化するという現象の発見の道具として、「バベルの塔の狸」ではこっちの世界からあっちの 世界へ行くときの道具として登場している。
   しかし、この「望遠鏡」はただそれだけのためにあるのではなく、「望遠鏡」だからこそその様な装置として書かれ、 またそのように使われたのである。
 なぜそう言えるのか?
 それには、まず「望遠鏡」とは何なのかを知っていただかなくてはなるまい。それは「遠くのものを大きく見るもの」 だけではない。
望遠鏡には森敦が『意味の変容』所収「死者の目」でいう
望遠鏡は、これによって内部をなすところの領域の中に、外部をなすところの領域を実現し、 この内部をなす現実が、まさに内部であることを証明しようとするものである。〔4〕
という面白い機能がある。ここではまだピンと来ないかもしれない。しばし森敦『意味の変容』所収「死者の目」に耳を傾けていただきたい。
〜きみがその望遠鏡の円い視界に見ているのは、外部をなすところの領域が実現されたものだ。 すでに現実ではない。
「現実ではない?」
 そうだよ。いいかい、いまぼくが望遠鏡の対物レンズ――外部に向かっているレンズをそう呼ぶんだがね――を半分、掌で覆ってみるよ。 それでも、視界は円いままですこしもかけていないだろう。
「欠けないね。きみが望遠鏡の対物レンズ――と言ったかね――を、きみの掌で覆っているかどうかもわからないぐらいだ」
 もっとも、光学的には対物レンズを浸透して来る光量が、少なくなるわけだから、きみの見ている映像は、それだけ暗くなっているんだがね。 しかし、これがもし円く残して他を墨で塗った、ただの板ガラスを通して見るんだったら、すぐこうして覆ったぼくの掌が見えてしまうだろう。 それはただの現実でしかないからだよ。
「そうかなア。しかし、円い視界にあるものは、ただあるように見えるだけで、格別大きくなっているとも思えないね」
 そりゃア、そうだろう。これは倍率一倍の望遠鏡だからね。
「倍率一倍の望遠鏡? そんなものをなににつかうんだね」
 わかってるだろう。この工場でつくられているのは、すべて照準眼鏡なんだ。
「照準なら照星や照門がいるはずじゃないか。しかし、ここには円い視界に浮かんだ十字線しかない」
 もとは照準にはみなきみらの知ってる照門や照星を使っていたんだ。ぼくらが照門を通して照星を見るということは、 銃身に平行した直線を得るということで、その直線の延長上に標的が来るように銃口を向ければ、 すなわち照準したということになるのだからね。しかし、ぼくらには両眼による視差というものがあり、 それを克服するためにはすくなくとも片眼を閉じなければならない。片眼を閉じたにしても、 照門、照星、標的のいずれか一つを見定めようとして、眼の焦点を合わせると、他の二つを見ることが困難になるんだよ。 ところが、凸レンズには極めて簡単な性能があるんだ。
対物レンズは凸レンズだから、無限遠にあるものをその焦点面に結像させる。なお、望遠鏡においては、 一点より放射される光線接眼レンズが、平行とみなされるとき、その一点を無限遠にあるという。
これを利用して倍率一倍の望遠鏡はつくられる。
倍率一倍のこの望遠鏡は互いにその焦点面を合致させ、これと対称的な位置にそれぞれ対物レンズ、 接眼レンズとして、相等しい焦点距離を持った凸レンズを置いたものである。
このような倍率一倍の望遠鏡においては、外部は焦点面上に実現される。したがって、焦点面上に十字線を刻んだ鏡を置けば、 ただ十字線の交点その一点だけを見ればいいということになるが、それでは外部は倒立したものになる。 そこで、ちょっとした幻術を使う。といって、驚くほどのものではないが、 正立レンズを使って、倒立したものを更に倒立させて正立させる。きみが覗いているのがそれなんだ。
「内部外部が互いに対偶空間をなすからね」

 面白いね。さっきからきみはそんなこと言ってたが、考えてもいなかった。ひとつ考えてみよう。
「いやァ、きみが『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』から、いつの間にか『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』 を引き出して来たのに驚かされたんだよ」
 まァ、きみがそれを覗くために閉じていた、片方の眼もあけてみたまえ。
「片方の眼もあけろというと、両方の眼で同時に内と外を見るのかね。・・・・・なんのことはない。円い視界もなくなって、 まるで望遠鏡なしでみてるようだ」
 それが倍率一倍の望遠鏡たるゆえんで、これからして望遠鏡の倍率なるものを定義することができる。
望遠鏡によって得られた外部の実現が、見た眼の現実と接続するとき、その倍率を一倍という。
「接続? じゃアこれからして他の倍率も定義することができるわけだ。
望遠鏡によって得られた外部の実現が、見た眼の現実と断絶するとき、その倍率はすくなくとも一倍ではない。
 このようにして、倍率一倍の望遠鏡から発達して、次第に高い倍率の望遠鏡ができていったんだね」
それが必ずしもそうではない。望遠鏡によった実現が、見た眼の現実より大きく見えるからこそ、珍重されたのだからね。 ガリレイがはじめてつくったのも、倍率九倍ぐらいの望遠鏡じゃなかったのかな。そして、たしか倍率二十数倍の望遠鏡までつくったはずだよ。 それがあまりに素晴らしかったので、学者たちから幻術扱いされた。彼等はこの眼で見たように見えなければ、 真実とは思えなかったんだろう。 いわば実現と現実が断絶していたために、実現のいかなるものかを考えてみようとはしなかったのさ。 ガリレイはむしろ望遠鏡が接続し得るものだということを示してやるべきだったのだ。〔5〕
 私なりにまとめると、「望遠鏡とは無限遠にある外部を内部に実現する装置である。そして、 その実現は現実に接続しうるものである。」ということになる。
 つまり、「壁」における「望遠鏡」は、安部が  
―――芸術のアクチュアリティの回復のために、新しい眼と言葉を発見しよう。 普通のフィルムで不足なら、赤外フィルムを発明しなければならないし、光を感ずる望遠鏡で不十分なら、 電波望遠鏡を創らなければならないのである。それは現実を、はだかの「物」にまで解体して、再構成し、 現実の新しい意味を発見しようということにほかならない。しかし、蛇の足と同様、「物」は無限に逃げていく。 「物」の発見は、まさに無限の追求なのである。〔6〕
と言う無限遠にある「物」を発見しようとする思考を結晶させて発明した、「物」を発見する装置なのである。 そしてそれは無限遠にある外部を内部に実現し、その実現は現実に接続しうるものなのだ。
 また、この「望遠鏡」はかなり応用されて他でも使用されている。今後「壁」を論じていくうえで明らかにしていきたい。

出典・注
〔1〕安部公房 『壁』225頁(新潮文庫 1993年)
〔2〕安部公房 『壁』225〜226頁
〔3〕安部公房 『壁』180〜181頁
〔4〕森敦 『意味の変容』28頁(筑摩書店 1984年)
〔5〕森敦 『意味の変容』30頁〜36頁
〔6〕安部公房 『安部公房全作品・13』147頁(新潮社 1973年)


 
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