◎安部公房における「対話」


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 「他人」とは自己対話(モノローグ)ではない対話の相手である。
 我々はそれを考える上で『他人の顔』を参考にする事ができる。
 安部が
人間は、隣人を超えて他人の発見に到達しないかぎり、不可避的に痴漢であり、性的神経症患者であり、殺人予備軍であり、潜在的放火魔にならざるを得ないことの体験的報告書だ。 〔26〕
と、『他人の顔』を解説する時、その「他人」を
あなたに必要なのは、私ではなくて、きっと鏡なのです。どんな他人も、あなたにとっては、いずれ自分を映す鏡にしかすぎないのですから。 〔27〕
と言う「他人」と受け取ってはいけない。それはモノローグにすぎない。
 安部が「他人」と言う時
知ろうとして、知ることが出来るような、そんな生易しい他人ではない。この点についてなら、他人知らずという一言で、他人を射止められると思い込んでいるおまえの方が、よほど重病の他人知らずなのではあるまいか。〔28〕
と言う意味での「他人」であり、詰る所その意味は
いったい他者とは何かという再発見ですね。それを積極的にしていかないと、わらわれがいつか安定感を失ったときに、あるいは不安を生じ、農民的な構造を振り返る、そしてそこに郷愁を感じる、そういう状態にどうしても陥りがちだ。そこで、まあ、べつに解決を僕は見つけているわけではないし、ぜんぜんわかりませんけれども、なんとか未知の他者とは何か、それを発見する努力を文学の上でしたい、というわけです。見つかるかどうかわかりません。これはあるいは見つからないものかもしれないけれども、少なくとも未知な他者というものへの通路を探るという努力を、自分の仕事だというふうに考えているわけです。  〔29〕
という安部の言葉に探すことができ、その「未知な他者」の意味を現在、論理的に考えるならば、野家啓一が解説する所の  
われわれは通常、私と他者の間に「言語ゲーム」が成立するためには、前もって彼我の間に共通の規則(コード)が存在していなければならない、と考える。だが、柄谷に言わせれば、このような考え方こそ、「独我論」の典型にほかならない。独我論とは、「私にいえることは万人にいえると考える」ような思考法のことだからである。そこに見いだされる他者は、「もう一つの自己意識」にすぎず、そこで行われる言語ゲームは、見かけはどうであれ単なる「自己対話(モノローグ)」でしかない。そこには、他者の「他者性」がはなから欠落しているのである。現象学をはじめ、「内省」を特権的方法とする哲学は、高々「我」から「我々」への通路を確保しえたにすぎず、ついに真の《他者》を見出すには至っていない。   〔30〕
「《他者》」と考えるのが妥当であろう。その「《他者》」との対話は、常に、柄谷が
マルクスがいったように、商品はもし売れなければ(交換されなければ)、価値ではないし、したがって使用価値ですらもない。そして、商品が売れるかどうかは、「命がけの飛躍」である。商品の価値は、前もって内在するのではなく、交換された結果として与えられる。前もって内在する価値が交換によって実現されるのではまったくない。〔31〕
と、言うところの「命がけの飛躍」がともなう。実際に安部は、その「対話」を使用するとき、その事を厳密に言明してはいないが、例えば
一瞬先の予断も許さない、肉体の対話の持続であり、観衆はいやおうなしに、その対話への参加を強制されるのだ。ベルトルト・ブレヒトが、その演劇論のなかで、ドラマと観客との交流の理想状態を、ボクシングになぞらえたのも、おそらくそのような意味からであったに相違ない。〔32〕
最初に、その風景を知ったのは、ある週刊誌のグラビア写真からだった。酒田市の近くにあるという、その砂に埋れた村の姿は、奇妙にぼくをひきつけた。たまたま東北旅行の機会があり、ついでにそこを訪ねてみることにした。砂が木材を腐蝕する話と、食事のときに傘をささなければならないという話を聞けただけでも、来たかいがあったと思った。それ以来、機会あるごとに、鳥取や千葉の海岸など、砂のある地方を旅行してまわることにした。べつに、直接的な成果を期待したわけではなく、ただ対話を誘発するための手段くらいの、軽い気持からだった。 〔33〕
のなかで使用されている「対話」。
ローマからパリにでた。パリからプラーグに入った。東京を発ってから五日目の、四月二十八日である。
雨がふっている、うすら寒いおそろしいほどしんとした日だった。飛行場からホテルにむかう車の中で、どういうわけか私は突然旅行が本当にはじまったことを自覚したのである。それは目的地についたという単純な理由のためではない。心の中で、なにかしらもうれつな対話がはじまりかけていた。準備してきた私の予測を裏切り打壊すものを予感していた。私は一方の端をここにおき、もう一方の端を日本において、ぴんと張った電線のように緊張しはじめていた。
たぶんあの引き込まれるような異様な静けさのせいだったかもしれない。白に赤線をまいたからっぽのおそろしく旧式な電車がゴトゴトすれちがった。黒ずんだ石の壁にはさまれた暗い狭い道がうねうねとどこまでもつづき、雨にぬれた貧相な二、三人の兵隊のほか、通行人はほとんど見掛けなかった。急に高い丘の上に出ると城がありその下に町があった。カフカの町だな、と、とっさにそう思った。対話がはじまらなかったらそのほうが不思議である。
もっともこれは有名なプラーグの城を見せるため、わざわざえらんだ廻り道だったのだ。あの不安なほどの静けさも、種をあかせばなんでもないことだったが、しかし私にとっては実にいいきっかけだった。いちはやく対話の精神をとりもどしたことで、旅行を内容あるものにすることができたのだから。いや、そんなことがなくても早晩旅行嫌悪症から脱出できていたにちがいないと思う。やがて予期しなかったことが次から次とあらわれてくる。だがもしこのきっかけをつかまないでしまったら、おそらく日程の半分は駄目にしてしまっていただろうと思うのだ。
生きた外部の現実がないとはいえ、一日を最小三つにも分けためまぐるしいプログラムが間断なくおそいかかってくる。その印象の量におぼれて、消化不良をおこすことは必定だった。ただ疲れた顎にむちうって愛想笑いしながら(じっさい西洋人はよく笑う。意味なく笑うのは日本人の悪習だなんていわれるがとんでもない大嘘だ)三度三度のホテルの高級料理をぱくつき、そのあいだに芝居を見物し、コルホーズを訪問し、工場を見学し、労働者ホールに案内され、誰彼の訪問をうけ、なるほど人民民主主義国は明るい平和な国です、みんな気持ちのよい人で、あたたかい歓迎をしてくれ、日本との友好を求めていますなどと、行かなくても分りきっているような文句を心に描いたり口にだして言ったりするだけのはなし。じっさいこれまでそんなふうな旅行記ばかりだったじゃないか。
さいわい私はその種の外遊病にはかからないですんだ。たぶん私がいちはやく対話の精神をとりもどしたためだと思う。とりもどしてみると、旅行というものがさきに考えていたほど無意味でもなかったことに気づいた。つまり旅行とは新しい仮説のもとでなされる対話の実験なのである。それに気づけばもうよろしい。旅は現実からの単なる断絶ではなく、現実をよりよくとらえるためにその間に新しい操作を挿入することだったのだ。 〔34〕
のなかで使用されている「対話」。
 いずれも共通の規則が無い所との「対話」、あるいは、命がけの肉体の「対話」である。
 又、忘れてはならないのが、この「対話」の相手はスケープゴートとしてのユダヤ人ではなく、「独特なニュアンス」を持つユダヤ人であることだ。
 その意味に於いて「独特なニュアンス」を持つユダヤ人は、安部が
しかし、蛇の足と同様、「物」とは無限に逃げていく。「物」の発見は、まさに無限の追求なのである。〔35〕
と言う「物」と、同義と考えてよい。

出典・注
〔26〕安部公房『砂漠の思想』124頁
〔27〕安部公房『安部公房全作品・6』320頁(一九七二年)
〔28〕安部公房 同書322頁
〔29〕安部公房『都市への回路』200頁(中央公論社 一九九三年)
〔30〕柄谷行人『探究T』260頁
〔31〕柄谷行人『探究T』9頁
〔32〕安部公房『安部公房全作品・15』279-280頁(新潮社 一九七三年)
〔33〕安部公房 同書162頁
〔34〕安部公房『安部公房全作品・13』10-11頁
〔35〕安部公房 同書147頁
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