『洪水』論

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第二章 『洪水』論

◎望遠鏡
 ―――「物」と「死者の眼」―――

  この『洪水』の話には作品世界に次の様な不可解な事を起こす装置として「望遠鏡」が登場している。

 ある貧しい、しかし誠実な、哲学者が宇宙の法則をさぐるために、屋上の平屋根に一台の望遠鏡を持ち出して、 天体の運行をさぐっていた。〔1〕

そしてその「哲学者」が「何気なく」向けた所に「一人の労働者」が見え、さらに見続けていると

 不意に輪郭が不明瞭になり、足のほうからとろけ、へなへなとうずくまり、服と帽子と靴だけを残してぼって りとした粘液のかたまりになり、最後に完全な液体に変って平たく地面に拡がった。〔2〕

これは「望遠鏡」を覗いていた「哲学者」の頭の中、つまり意識の中での出来事であるが、やがて現実となって行 く。しかしなぜ意識の中にしろ外にしろこの様な事が起こり得るのだろうか。ここに安倍一流のトッリックがありはしないか?
 また、そこには安部の物の「物」を見ようとする思考の世界があるのではなかろうか。要するに私が『デンドロカカリ ヤ』で、モノローグの世界認識で植物を見ている限り我々は植物を見ていないといったそれであり、たとえ対象が人間で あってもいいわけだ。
 まてまて、望遠鏡の同じ様な例は『バベルの塔の狸』に見る事が出来るだろう。

不思議なのは、望遠鏡をとおしてなら、箱と僕の距離はたしかに普通に会話が交わせるくらい近かったのですが、
望遠鏡をはずすと、箱はまだ遠くの空にぽつんと浮いている点にすぎなかったのです。
「君は一体何者なんだ?」僕は思わず問返していました。
「ぼくは君に養ってもらったとらぬ狸さ。」と獣は平然と答えました。〔3〕

ここでは「とらぬ狸」はあっちの世界に住み、僕はこっちの世界に住んでいると言う事と、この「望遠鏡」 があっちとこっちの越境の役割をしている事をおさえておこう。

 さてここで、安部の言葉

しかし、蛇の足と同様、「物」は無限に逃げていく。「物」の発見は、まさに無限の追求なのである。    
                                         〔4〕

に戻って考えれば、「物」は無限のかなた、無限遠点にあることになる。それは要するに、

物質とは、人間の意識から独立して、その外に存在する。〔5〕

というレーニンの言葉に言い直せる。
 あっちとこっちを安部の思考で言うならば、「物」の世界とそうでない世界と言う事が出来るだろう。言い方の違いに過ぎない。
つまり「物」は外部、あっちの世界にあるのだ。そしてその外部を見ようとする装置として、望遠鏡が使われていると考えてよいのではないだろうか。
 しかしなぜ「望遠鏡」という装置を使うとその「物」が見えるのか。
驚くことに望遠鏡にはあまり知られていないが森敦が『意味の変容』所収「死者の眼」で言う

望遠鏡は、これによって内部をなすところの領域の中に、外部をなすところの領域を実現し、この内部をなす現
実が、まさに内部であることを証明しようとするものである。〔6〕

と言う機能がある。どういう事か、森敦の説明は次の様になる。

きみがその望遠鏡の円い視界に見ているのは、外部をなすところの領域が実現されたものだ。すでに現実ではな い。
「現実ではない?」
 そうだよ。いいかい、いまぼくが望遠鏡の対物レンズ――外部に向かっているレンズをそう呼ぶんだがね――
を半分、掌で覆ってみるよ。それでも、視界は円いままですこしもかけていないだろう。
「欠けないね。きみが望遠鏡の対物レンズ――と言ったかね――を、きみの掌で覆っているかどうかもわからな いぐらいだ」
 もっとも、光学的には対物レンズを浸透して来る光量が、少なくなるわけだから、きみの見ている映像は、そ れだけ暗くなっているんだがね。しかし、これがもし円く残して他を墨で塗った、ただの板ガラスを通して見る んだったら、すぐこうして覆ったぼくの掌が見えてしまうだろう。それはただの現実でしかないからだよ。
「そうかなァ。しかし、円い視界にあるものは、ただあるように見えるだけで、格別大きくなっているとも思え ないね」
 そりゃァ、そうだろう。これは倍率一倍の望遠鏡だからね。
「倍率一倍の望遠鏡? そんなものをなににつかうんだね」
 わかってるだろう。この工場でつくられているのは、すべて照準眼鏡なんだ。
「照準なら照星や照門がいるはずじゃないか。しかし、ここには円い視界に浮かんだ十字線しかない」
 もとは照準にはみなきみらの知ってる照門や照星を使っていたんだ。ぼくらが照門を通して照星を見るという ことは、銃身に平行した直線を得るということで、その直線の延長上に標的が来るように銃口を向ければ、すな わち照準したということになるのだからね。しかし、ぼくらには両眼による視差というものがあり、それを克服 するためにはすくなくとも片眼を閉じなければならない。片眼を閉じたにしても、照門、照星、標的のいずれか 一つを見定めようとして、眼の焦点を合わせると、他の二つを見ることが困難になるんだよ。ところが、凸レン ズには極めて簡単な性能があるんだ。

                                    
対物レンズは凸レンズだから、無限遠にあるものをその焦点面に 結像させる。なお、望遠鏡においては、一点より放射される光線 が、平行とみなされるとき、その一点を無限遠にあるという。 
                                                                
これを利用して倍率一倍の望遠鏡はつくられる。                  
                                                           
倍率一倍のこの望遠鏡は互いにその焦点面を合致させ、これと対 称的な位置にそれぞれ対物レンズ、接眼レンズとして、相等しい 焦点距離を持った凸レンズを置いたものである。                  
                
このような倍率一倍の望遠鏡においては、外部は焦点面上に実現 される。したがって、焦点面上に十字線を刻んだ鏡を置けば、た だ十字線の交点その一点だけを見ればいいということになるが、 それでは外部は倒立したものになる。そこで、ちょっとした幻術 を使う。といって、驚くほどのものではないが、正立レンズを使 って、倒立したものを更に倒立させて正立させる。きみが覗いて いるのがそれなんだ。                                          
「内部外部が互いに対偶空間をなすからね」〔7〕
                        
つまり人間を「望遠鏡」を通してみたとき、うまい具合に「物」が見えることになる。
だが、それは森敦もいうように「実現」であり「現実」ではない。なぜ「実現」が

  
事実世界のいたるところで、労働者や貧しいものたちの液化が始まっていた。〔8〕


と「現実」になるのか。もう一度森敦の説明にもどってみる。引用は先の引用の続きである。

 面白いね。さっきからきみはそんなこと言ってたが、考えてもいなかった。ひとつ考えてみよう。
「いやァ、きみが『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』から、いつの間にか『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラ ン』を引き出して来たのに驚かされたんだよ」
 まァ、きみがそれを覗くために閉じていた、片方の眼もあけてみたまえ。
「片方の眼もあけろというと、両方の眼で同時に内と外を見るのかね。・・・・・なんのことはない。円い視界 もなくなって、まるで望遠鏡なしでみてるようだ」
 それが倍率一倍の望遠鏡たるゆえんで、これからして望遠鏡の倍率なるものを定義することができる。
                                                     
 望遠鏡によって得られた外部の実現が、見た眼の現実と接続するとき、その倍率を一倍という。
    
「接続? じゃアこれからして他の倍率も定義することができるわけだ。

 望遠鏡によって得られた外部の実現が、見た眼の現実と断絶するとき、その倍率はすくなくとも一倍で はな い。   

 このようにして、倍率一倍の望遠鏡から発達して、次第に高い倍率の望遠鏡ができていったんだね」
  それが必ずしもそうではない。望遠鏡によった実現が、見た眼の現実より大きく見えるからこそ、珍重された のだからね。ガリレイがはじめてつくったのも、倍率九倍ぐらいの望遠鏡じゃなかったのかな。そして、たしか 倍率二十数倍の望遠鏡までつくったはずだよ。それがあまりに素晴らしかったので、学者たちから幻術扱いされ た。彼等はこの眼で見たように見えなければ、真実とは思えなかったんだろう。いわば実現と現実が断絶してい たために、実現のいかなるものかを考えてみようとはしなかったのさ。ガリレイはむしろ望遠鏡が接続し得るも のだということを示してやるべきだったのだ。〔9〕

安部公房がこの文章を読んでいたかどうかは知るすべがないが、森敦の考え方はぴたりとこのトリックみたいな話に当てはまる。
要するに「実現」は「現実」と「接続」している。だから内部はやがて外部となる。それ故に「哲学者」は

 世界に向って大洪水の到来を予言した。〔10〕

のである。言い直せばこれが作者安部公房の考えたこのトリックの種なのではないか。これほど符号が合えばそう断定してもいいだろう。
 以上は我々が「哲学者」の立場をかりて観た景色現象である。
さて今度は労働者になってみよう。作品の焦点である自分自身が「液化」するという恐怖ホラーを忘れてはなるまい。ではそれを認識した場合どのような事が見えてくるのだろうか。

◎「洪水の持つ矛盾した性格」
 ―――作者・語り手が問いかける問―――

 自分自身が「液化」する事を認識する事とは、自分の身の上に来たる未来をまざまざと直視する事に他ならない。その場合

富める多くの人たちはたちまち文字どおりの恐水症にかかった。〔11〕

と同様にその未来を否定する立場か、「労働者」「刑務所の囚人たち」のように虚無的に、自ら進み「液化」する 、と言う二つの道がここには描かれている。その二つの道の分かれ目に我々が立たざるを得ない時『第四間氷期』 の登場人物の

「しかし、私が水棲人に対する裏切り者なら、君達は地上の人間に対する、裏切り者じゃないか!」〔12〕

と言う言葉が意味するジレンマ、つまり未来〔13〕と現在、「液体人間」と人間、一体どちらを支持すればよい
か判断できなくなる決定不可能性が生じている。それ故に「新聞」は

この洪水の持つ矛盾した性格や、その本質的な原因については固く口を閉ざしたまま決してふれようとしなかっ
た。〔14〕

と沈黙を守る事になる。いや、触れる事が出来なかったのだ。ただし「新聞社」は「国王や元首」たちと賛同 して現在の人間を支持している。そして「新聞社」が沈黙を守ってはいるが

 不安と苦悩が世界を覆った。〔15〕

と誰もがその「不安と苦悩」によって決定不可能性を感じているだろう。いや、来る未来におびえていると言った 方が近いのだろうか。
 我々は先の事に不安を感じる時「先の見えない不安」と言うけれどもそれは決して先が見えないのではなく、漠 然とした先が見えているからこそ不安なのである。足の下が崖と知らずに不安を感じる人は居ない。つまり、或る 程度の予測が不安、恐怖を呼び起こすのである。
 そのおびえは当然の事ながら「水棲人間」の排除に、より一層の力をそそがせる。ここに、安部が『SFの流行 について』で述べた「あらたな仮説をもちこめば、日常性はたちまち安定を失って、異様な形相をとりはじめる。 日常は活性化され、対象化されて、あなたの意識を強くゆさぶらずにはおかないはずである。」という作品の機能 がある。この装置は多くのSF作家に踏襲されているが、これからも踏襲され続けるであろう。
 付け加えるならば、その「不安と苦悩」を全く感じない「楽天的で狡猾なノア」が登場しているが、その「ノア」も最終的に「溺死」する瞬間、恐らく「不安と苦悩」を感じたであろう。 このような人物はSF映画に一人ぐらい必ずといっていいほど「もう全てが終わりだ」と言う意味とともに登場している。
それから安部は

 こうして第二の洪水で人類は絶滅した。だがしかし、すでに静まった水底の町や村の、街角や木陰をのぞきこ んでみると、何やらきらめく物質が結晶しはじめているのだった。多分過飽和な液体人間たちの中の目に見えな い心臓を中心にして。〔16〕

と書いている。
 この時安部という作者・語り手は「人類」、つまり人間と「液体人間」、どちらでもない第三の視点から見おろしている。 そしてその視点という覗き窓から我々読者に・どう思う?・と見せている。 しかし、私はここで「新聞」のように沈黙を守る事はせず、安部がどうして第三の視点に立てたかを考えてみる事で、その答に したい。
 この『洪水』は谷真介作成の年譜によれば

1950年(昭和25)26歳
〜略〜 月号「人間」に創作「三つの寓話(赤い繭・洪水・魔法のチョーク)」〔17〕


とあるように「寓話」である。つまりその「寓話」である事において『洪水』は柄谷行人が言うように

寓話とは形式のことであり、それはどんな意味にでも「解釈」されることができる。〔18〕


 「形式」を考えてみれば、この『洪水』の形式は『第四間氷期』『榎本武揚』にも見る事が出来るが、その
典型的な「形式」は安部が『第四間氷期』の連載中に書いた『予言機械≠フ中の未来』というエッセーの中の次
の部分に見る事が出来る。今更ながら安部公房と言う作家は多くの類型的な話を書いているとつくづく思う。

「泥棒をすべきか、乞食をすべきか、ああ、それ以外に第三の道はないのか」というプロローグではじまる芝居 を花田清輝が書き、それはむろん、革命の道を暗示するものだったが、なぜかかなりの人がこれを誤解して、平 和と暴力との闘いを回避しようとする、第三勢力的中立に対する諷刺だと受けとったらしいのである。作者の考 えでは、おそらく、革命を平和か暴力かという二者択一でしか考えられない、機械的な傾向に対し、その新説法 的な統一のうえに立った独自な・・・・・というよりも、平和か暴力かの選択のまえに、先ず革命の思想がなけ ればならないのだという、しごく当然な革命論を主張したつもりだったのだろうが、それをまるであべこべに、 しかも好意的に受取ったものがいたというのだから、なんとも不思議な話である。〔19〕

 要約すれば二元論的思考ではない思考、「革命の思想」が必要だと言う事である。その「革命の思想」こそが第 三の視点なのではないか。すなわち、それは安部公房が『幕末・維新の人々』で

忠誠でもなく、裏切りでもない、第三の道というものはありえないのだろうか。〔20〕


という「第三の道」である。では、どのような「道」なのか。ここで終わってもいいが、せっかくなのでもう少し突っ込んでみよう。

◎「第三の道」とは何か
 ―――真の笑い―――

 我々はその「道」を先に述べた「哲学者」に可能生として見る事が出来る。ただ、

哲学者は望遠鏡から眼を離し、重い吐息をついた。〔21〕

の様にではなく、その 決定不可能性を虚無的にではなくそのまま、肯定する事によってある。それは先の『どれい 狩り』のところで私が述べた世界の無境界化を肯定する事と同義である。そして安部が

 十三年前にも、この芝居は観客によく笑ってもらった。いまでも、はっきり記憶に残っていることだが、ある 批評家などは、どうしても笑いがこらえきれず、ついに椅子から(あの狭い俳優座の椅子から)ずり落ちてしま ったほどである。ところが、さぞかしほめてもらえるだろうと思っていた、ぼくの期待に反して、その椅子から ずり落ちた批評家先生からさえ、無意味な笑いによって観客を愚弄した精神分裂的な作品であると、さんざんこ き下ろされてしまったものだ。 真の笑いは、それ自身で思想だと考えていたぼくは、ショックのあまり芝居に関 心を失いかけ、もし千田さんの力づけがなかったら、「どれい狩り」が処女作であると同時に、最後の戯曲にな っていたにちがいない。〔22〕

という「真の笑い」と共にある事。つまり、それが安部の考えた「第三の道」であり、ヒューモアなのである。  しかし依然として私には進めないような『洪水』の語り手の視点である。せいぜい「楽天的で狡猾なノア」にな れるぐらいだろう。なぜなら決定不可能性を笑い(それは安部が
本当の残酷というものは、残酷な事実にあるのではなく、残酷を残酷と思わない精神構造にあるのだ。
                                          〔23〕

という精神構造でもある。)と共に享受しなければ、我々はその時空に閉じ込められてしまうからだ。そして決し て「きらめく物質の結晶」という安部公房作品中最も美しい「物」を見られる時空へは進めない。



注・参考文献
〔 1〕安部公房 『壁』225頁(新潮文庫 一九九三年)
〔 2〕安部公房 『壁』225〜226頁
〔 3〕安部公房 『壁』170頁
〔 4〕安部公房 『安部公房全作品・13』147頁(新潮社 一九七三年)
〔 5〕中沢新一 『はじまりのレーニン』51頁(岩波書店 一九九四年)
〔 6〕森敦    『意味の変容』28頁(筑摩書店 一九八四年)
〔 7〕同書                    30〜33頁
〔 8〕安部公房 『壁』226頁
〔 9〕森敦    『意味の変容』34〜36頁
〔10〕安部公房 『壁』226頁
〔11〕安部公房 『壁』228頁
〔12〕安部公房  『第四間氷期』251頁(新潮文庫 一九七五年)
〔13〕安部公房  『第四間氷期』の「あとがき」
 真の未来は、おそらく、その価値判断をこえた、断絶の向こうに、「もの」のように現われるのだと
思う。たとえば室町時代の人間が、とつぜん行きかえって今日を見た場合、彼は現代を地獄だと思うだ
ろうか、極楽だと思うだろうか? どう思おうと、はっきりしていることは、彼には、もはやどんな判
断の資格も欠けているということだ。この場合、判断し裁いているのは、彼ではなくて、むしろこの現
代なのである。
〔14〕安部公房 『壁』230頁
〔15〕安部公房 『壁』230頁
〔16〕安部公房 『壁』231頁
〔17〕安部公房  『砂漠の思想』434頁(講談社文芸文庫 一九九四年)谷真介作成の年譜
〔18〕柄谷行人  『ヒューモアとしての唯物論』285頁(筑摩書房 一九九三年)
〔19〕安部公房 『安部公房全作品・14』122頁(新潮社 一九七三年)
〔20〕安部公房 『安部公房全作品・15』159頁(新潮社 一九七七年)
〔21〕安部公房 『壁』226頁
〔22〕安部公房 『安部公房全作品・15』242頁
〔23〕安部公房 『安部公房全作品・14』61頁