●なぜ、「あの藤野君」が
    『ウエー(新どれい狩り)』に登場する「飼育係(藤野君)」のモデルなのか

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―――安部公房の無意識―――

安部公房自身の疑問?
 「あの藤野君」とは、その昔安部が満州からの引き揚げ船で出会った実在の人物であると『笑う月』に記されている。
 そして、『ウエー』とは安部の戯曲で、『どれい狩り』(戯曲)をリライトしたものである。
 ここでは『ウエー』を『どれい狩り』と読み替えていくことを了承されたい。それでは話にならないと思われるかも知れないが、しかしながら「飼育係(藤野君)」は『どれい狩り』から登場している人物なのだから問題はないと思われる。制作された時期も『どれい狩り』の方が「あの藤野君」に近いのだから、むしろ『ウエー』で考えるよりも好ましいと考える。
 さて、『どれい狩り』のその内容は人間を人間そっくりに仕立てて、それを珍獣ウエーであるというふれこみで一儲けしようとする詐欺師と、それに騙される土地成金の話だ。勿論、ウエーは「人間そっくりの珍獣」なんかではなく、ただ単に詐欺師が、人間を「ウエー」だと言っているだけにすぎない。その中で「ウエー」の「飼育係」のモデルとなったのが引き揚げ船の「あの藤野君」だというのである。
 どうして「あの藤野君」が飼育係のモデルになったのか。「あの藤野君」の記述を『笑う月』より抜粋すると

 ぼくらはその中に、イワシの罐詰なみに詰め込まれていた。いや、罐詰のイワシの方がまだましだろう。〜略〜  たまに死人が出たりすると、周囲の者がうらやましがられた。重病人の左右はつねに関心のまとだった。空間はまさに、食糧につぐ貴重品だったのである。
 さて、そうした空間の争奪戦のなかで、〜略〜 藤野君はまったく個人的な方法で、専有空間の拡張をなしとげたのである。その秘密は、一種の商行為によるものだった。つまり取引である。一日に三度、耳掻一ぱいずつのサッカリンという条件で、三人の人間から場所を買い取っていたというわけだ。
 当時サッカリンは、もっとも確実で安定した通貨だったのである。
        『笑う月』
 

という、いささか極悪非道な成金者の様に思われもするような、人物である。しかし、

だが彼はなかなかの戦術家でもあった。勝ち目がない、とあきらめたとたん、敵意があっさり羨望に変わってしまう、あの弱者の心理をよくつかんでいた。 
                              『笑う月』 P51

らしく

敵意をあらわにした者だけは、たしかにいなかったように思う。
                              『笑う月』 P52

と言う人物である。このような人物がなぜ戯曲の中の登場人物「飼育係」のモデルになったのか。

どこに、どんなつながりがあるのだろう。自分の思考の筋道が、自分にもよく分からない。
                                 『笑う月』 P55
と安部は書いている。

点から線への推理
 以下は、「あの藤野君」を『どれい狩り』に登場する「飼育係」にした安部の無意識の思考(ブラックボックス)を記述して説明してみようと言う試みである。

 さて、先ずは『どれい狩り』に登場する「飼育係」から考えていくことにしよう。
 「飼育係」は、人間そっくりのウエー(飼育係は最初から「ウエー」は本当は人間であると知っている)を便宜上飼育する人物である。と言うのは、彼の作品中での性格は気弱でどことなく人のいいところがあり、詐欺師にはなりきれない人物としてあるからである。
 また、登場人物の一人「娘」がウエーは人間であると言うことを主張するのに対し、「飼育」係は獣医(獣医もかねている)としてウエーはウエーであると言い続けなければならないのだが、そう簡単に割り切れないアンビバレンツな思いを抱く、役目をになっている。しかし、「娘」に恋をしてしまい、終いには「娘」の言うなりに、

娘          皆さん、ウエーになりましょう。
飼育係      ウエー。〔6〕

と尻尾を出してしまい、結局「飼育係」は当初の役目、「ウエーはウエーである事を保証すること」を放棄してしまうことになる。
 先の引き揚げ船の中の「藤野君」が狡猾で理知に富んだ人物で、人を使うタイプであるのに対し、「飼育係」は優柔不断で、対照的に人に使われるタイプとでも言えるだろう。
  両者を比べると、確かに表面上は安部の言う通りで、どこにどんな繋がりがあるのか判然としない。
 しかし、人物の性格ではなく、引き揚げ船の中の「藤野君」はサッカリンによる売買の関係、「飼育係」は彼の担う役割に焦点を当ててみてはどうだろうか。
 まず、『どれい狩り』においては、人間をAとし、ウエーをBとすると、その両者の関係において、Aの存在である人間に対して、Bの存在であるはずのウエー(人間そっくり)が、AとBの境界のを破る為に最後には世界の無境界化を引き起こしている。言い換えると、AとBが区別されるためには、BはAによってAではないと証明されねばならない。しかし、AとBは本当は同じもので違いはないわけだから、ここで必要な人物が獣医である「飼育係」の存在なのではあるまいか。
 つまり「飼育係」はここでは、AでもないしBでもない特別な存在としてある。
 いいかえれば、Aにとって人間そっくりなBを、Aでないと断言するために、AでもなくBでもない何らかの超越的(メタレベルの)証明者Cが必要となる。そして、「飼育係」の藤野君こそがCなのである。
 簡単に三角形で図示すれば(図T)、ABCを三角形の三点割り振ると、Cが頂点となっているわけだ。そしてこの頂点CはAとBが混じり合うのを防ごうとするが防ぎきれなく自らも巻き込まれていく存在である。(図U)
    
娘          皆さん、ウエーになりましょう。
飼育係      ウエー。〔6〕
   〜中略〜
主人    (ハイエナのように、天に向かって悲しげに長々と吠えつづける)ウエエエ      エエエエエエエエー。




    さて、次に実在の「藤野君」の話の方である。
 貴重な空間をAとするとそのAに換わる物としてサッカリンCをあげることが出来る。残念なことに、ここには『どれい狩り』におけるBがない。しかしながら、サッカリンは「当時サッカリンは、もっとも確実で安定した通貨」であったことを考えると、Bは自ずと想像できよう。考えられるのは食料、衣服、ひょっとすると命までも当てはまるかも知れない。
 つまり、ここでもABCを三点とする三角形として考えることが出来る。

そして、貨幣も『どれい狩り』の中の「飼育係」と同様に、AとBが混じり合うのを防ごうとするが防ぎきれなく、また自らも巻き込まれていく存在である。(注1) 
 実在の藤野君と、『ウエー』の飼育係の藤野君には以上のような共通点が考えられる。 とすると、これで二つは繋がったことになる。
 しかしながら、なぜ実在した「あの藤野君」が『どれい狩り』の「飼育係」のモデルなのかと言う疑問には、なぜ「飼育係」が『どれい狩り』の登場人物として必要なのかと言う問いが含まれている。その答えは案外簡単だが重要だ。
 答えは、《人間と同じものを人間ではないと言い張るには、超越的な「飼育係」は登場人物として欠くべからざるものだから》である。そうでなくては「ウエー」は作品中に出現しえない。
 もっと言えば、「ウエー」という作品の存在を成り立せているのが「飼育係」なのである。
 『どれい狩り』に隠された安部の無意識は、「飼育係」の周りをうろついているのだ。
 それは引き揚げ船の中の安部公房そのものである。安部はウエーだったのだ。
 安部は無意識のうちに貨幣という不可思議なものについて考えていたのである。
 このことは、安部公房 作家論としても重要なファクターとなるだろう。
 以上の考察のから、安部は引き揚げ船の中の「あの藤野君」を安部自身の無意識の中で、先に述べた三角形の関係の存在として整形し、「飼育係(藤野君)」として出てきたといえるだろう。
 さらに注目すべきはこの『どれい狩り』の原型である。
 『笑う月』に記されているものを抜粋すると、

 いま北海道では、あのとおり、いたるところでアムダ狩りが行われている。アムダというのは、戦時中、軍が音頭をとってその飼育を農家に半ば強制してまわった、人間そっくりの動物で、皮はなめして靴や鞄に、肉は軍隊用の罐詰に、骨は歯ブラシの柄から、ボタン、カルシウム剤の原料、等々と、かなり大々的な期待がかけられていたらしい。さすがに、期待されただけのことはあって、そのアムダは信じがたいほどの繁殖力を持っていた。またたくうちに、アムダの大群が、飼育場という飼育場にあふれ、軍が受け入れ態勢をととのえるよりも早く、肝心の資料の方がすっかり底をついてしまったのだ。そして、そんな状態のまま、終戦を迎えてしまうことになる。
 恐ろしい食糧難の時代だった。アムダの肉が歓迎されたのは言うまでもない。殺すはしから、飛ぶように売れ、たちまち大半が食いつくされてしまったという。だが、ごく一部の農家では、そうしても食う気になれず、飼育場の扉を開けて、そのまま逃げるにまかせたらしいのだ。考えてみれば、無理もない。人間そっくりでは、殺すにしのびなかった者もいたはずだ。〜中略〜逃げたアムダは、山にのがれて、細々と暮らしていたらしい。そのうち、野生化が進むにつれて、再び旺盛な繁殖力を取り戻し、やがて山の収穫だけでは不足しはじめたらしく、里に降りて田畠を荒すようになってきた。被害は加速度的に増大し、人間に似ているという理由だけで、黙認してはいられないまでに至ったのだ。類似は逆に、怒りを掻き立てる原因にさえなった。こうしてアムダは再び農家の大きな関心の的としてよみがえったのである。ただし今度は、憎むべき殺戮の対象として。

 というものだ。安部が北海道旅行の時に聞いた話で、本当は、人間そっくりなアムダはネズミそっくりなハムスターの「聞き違い」だったということが書かれている。
 さて、この話を先のABCで整理してみると農家A、アムダB、軍Cとなる。時間の以降と共にABCの三角形のCが崩れ去りABの無境界化が起こることが理解できよう。つまり、安部の無意識(「聞き違い」)が、「なんと言うこともない」話を、先に述べた三角形の関係の形に変形していることがはっきりとわかるであろう。
 また、安部はこの変形された話に対して、

 刺激的な話だった。僕はすっかり興奮してしまっていた。 『笑う月』P45

と、大いに興味を引かれている。
 もしかすると、実在の「藤野君」がいたからこそ、そしてその「藤野君」がなにやら不思議な存在で安部の無意識の記憶の中にいたからこそ、北海道での話を聞き間違えたのではなかろうかということも言えるのではないか。
 それは永遠に証明不可能なことかもしれないが。
 ついでに、この安部の無意識の思考が「赤い繭」「洪水」「人間そっくり」「榎本武揚」・・・・・・等数多くの作品に見られ、その思考を軸に作品の読み直しをすべきである事を指摘しておく。
 
(注1)『隠喩としての建築』柄谷行人 講談社学術文庫
たとえば、私がマルクスの貨幣論に固執する理由はどのみちマルクスなしに可能であった「マルクス主義」とちがって、彼が沈黙≠オないまでも、貨幣論をめぐって生涯にわたって書きなおし、なお且つ不満をいだいていたこと、しかもそれらのいわば「原資料」のうちでどれかに優位を与えられないということにある。彼にそのような悪戦苦闘を強いたのは、いうまでもなく「貨幣」という謎である。マルクスが思想家だとすれば、そこにおいてである。そして、私の考えでは、ソシュールにおける「言語」とマルクスにおける「貨幣」は、同じ位相に存在している。だが、それは言語学と経済学が類似していることではない。むしろ警戒すべきことは、テル・ケル派のように表面上の類似性にとらわれてしまうことだ。
 たとえば、ソシュールは、「貨幣を作る材料がその価値を決定すると考えたら大変な誤りをおかすことになるだろう。同様にある語を構成している根底は音声的実質ではない」(原資料)という。いうまでもないが、この比喩は不正解である。商品の価値がその材料と無関係だというならば、まだましだが、「貨幣の価値」などというのはあまりにも通俗的である。しかも、マルクスにとって問題なのは、貨幣が商品であるということではなく、なぜいかにして一商品が貨幣になるのかということなのである。要するに、ソシュールの経済学的比喩(新古典派の均衡理論をふくむ)はすべて排除してよい。それは「経済学批判」以前だからであり、ソシュールの「言語学批判」にこそ「経済学批判」を読むべきなのだ。
 ところで、ソシュールがこの批判によっていわんとするのは、言語を構成するのは、音声的実質(あるいは文字的実質)ではなく、形式≠セということであって、さらに彼は、
形式%Iな差異関係を価値≠ニよんでいる。ところで、丸山氏は、「価値は意義を生み出す源である」というソシュールの考えを、形相(形式)としてのラングに価値、規範としてのラングに意義、実質としてのパロールに意味をおく階層化によって、一つの明確な整合性を与えている。むろんこの階層の上位に主体的生産活動としてのパロールがあり、そこにこそ言語の「本質」があるというのである。
 しかし、この明確な整理に対して私が異和をおぼえるのは、どうみても、ソシュールのいう「価値」概念がはっきりしないからである。たとえば「諸価値がその共存それ自体によって相互に価値を決定しあう」というにしても、それなら、はじめから「諸価値」が存在するのだろうか。ソシュールが、価値と意義の関係に対して与えた苦しげな説明は、丸山氏のような階層化によって解消されないものをふくんでいる。
 そこで、私は、形式≠ナも価値≠ナもなく、マルクスのいう「価値形式」という視点をとる。いいかえれば、一項の意義≠ヘ別の項によって表示されるほかに在りえないというのが「価値形式」なのであり、また この関係は反転するから、そこから一項の意義=iマルクスの文脈でいえば一商品の内在的価値)が決定的に確定されることはありえない。だが、この価値形式(相対的価値形式と等価形式)の反転≠ェ禁止されるとき、いいかえれば一般的等価物(貨幣)が規範≠ニして出現するとき、それ以外の項は意義=iマルクスの文脈では内在的価値)をもつのである。
 たしかに、このことを説明するのは難しい。丸山氏のように「形相としてのラング」と「規範としてのラング」というふうに分けてしまえば明確になるが、困難は、ソシュール自身が説明に苦労しているように、この二つのレベルが循環してしまうところにある。私は価値形式の反転≠フ禁止といったが、そのときラッセルが言うロジカル・タイプの混同の禁止≠フことを指している。たとえば、『資本論』初版で、マルクスは、一般的等価物があらわれるとき、ライオンや虎や兎にまじって「動物」があらわれるようなものだといっている。つまり、数学者なら集合論のパラドックスとよび、論理的な禁止≠ノよって回避したような事態が、貨幣形式において生じるのであり、しかも貨幣が神秘的なものとなるのは、価値形式の反転を禁止すると同時に、この禁止をつねに侵犯するからである。つまり、貨幣は、一つのメタレベルとして商品の関係体系の上位に立ち、各商品に「価値」(ソシュールの文脈では意義=jを付与すると同時に、自ら商品として関係体系に内属するからである。
を熟読されたい


 参考文献
  『幽霊はここにいる どれい狩り』安部公房 新潮文庫
  『笑う月』安部公房 新潮文庫
  『隠喩としての建築』柄谷行人 講談社学術文庫




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