◎『どれい狩り』『ウエー(新どれい狩り)』『人間そっくり』の構造は「価値形式」。


   
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 安部の作品に共通の要素として、ある物がある。それは小説の構造的中心に密接な関係を持ち、かつ何割かの安部の作品がその物によって作品たり得ている。
 それは安部にとって小説製造機的なものである。
 そして、それは『どれい狩り』『ウエー(新どれい狩り)』『人間そっくり』に顕著に見ることができる。
 
 安部は『笑う月』所収のエッセー『藤野君のこと』に、『どれい狩り』『ウエー(新どれい狩り)』を書くときの発想の芽になった、安部が「人間そっくりの珍獣アムダ」と「ネズミそっくりのハムスター」を取り違えて聞いてしまった話を書いている。
 安部は昔、北海道旅行をしたとき、一人の老人の話を次のように聞き違える。
  
 いま北海道では、あのとおり、いたるところでアムダ狩りが行われている。アムダというのは、戦時中、軍が音頭をとってその飼育を農家に半ば強制してまわった、人間そっくりの動物で、皮はなめして靴や鞄に、肉は軍隊用の罐詰に、骨は歯ブラシの柄から、ボタン、カルシウム剤の原料、等々と、かなり大々的な期待がかけられていたらしい。〔1〕

 だが「軍が受け入れ態勢をととのえる」前に終戦になり、農家は食料難だったけれども、「ごく一部の農家では、どうしても食う気になれず」山へ逃がしてやった。けれども、アムダはやがて増加し、「里に降りて田畠を荒すようにな」ると、農家は「殺戮」を始めだす、という話だ。      
  その他に、「終戦の翌年、場所は、満州からの最後の引揚船のなか」で『ウエー』の登場人物のモデルになる、実在した「藤野君」の事が書かれている。

ぼくらはその中に、イワシの罐詰なみに詰め込まれていた。いや、罐詰のイワシの方がまだましだろう。
〜略〜  たまに死人が出たりすると、周囲の者がうらやましがられた。重病人の左右はつねに関心のまとだった。空間はまさに、食糧につぐ貴重品だったのである。
 さて、そうした空間の争奪戦のなかで、〜略〜 藤野君はまったく個人的な方法で、専有空間の拡張をなしとげたのである。その秘密は、一種の商行為によるものだった。つまり取引である。一日に三度、耳掻一ぱいずつのサッカリンという条件で、三人の人間から場所を買い取っていたというわけだ。
 当時サッカリンは、もっとも確実で安定した通貨だったのである。    〔2〕


この後、安部はその「藤野君」の様子と、「藤野君」をめぐる船内の様子を書いている。そして

 と、書いては来たものの、あの藤野君がなぜ『ウエー』に登場する飼育係のモデルなのかは、いぜんとして不明なままだ。〜略〜 どこに、どんなつながりがあるのだろう。自分の思考の道筋が、自分にもよく分からない。   〔3〕 

と書いている。  安部は「藤野君」と『ウエー』がどの様につながるかを論説できていないが、二つの間に「マルクスの価値形式」をおけば、それらは密接につながる。
  北海道での「人間そっくりの珍獣アムダ」の話の重要な点は、人間と動物の関係において、Aの存在である人間に対して、Bの存在であるはずの動物「人間そっくりの珍獣アムダ」が、AとBの境界の絶対化を破る為に起こる、世界の無境界化である。つまり、Aは自ら守らなくてはならない。故にBは、Aによって監視されねばならない。だが人間そっくりなBは、AにとってAでないと断言するために、AでもなくBでもない何らかの超越的(メタレベルの)確認者Cが必要となる。
 柄谷行人の言葉で言えば、

一項の意義≠ヘ別の項によって表示されるほかに在りえないというのが「価値形式」なのであり、また                                                                                             
この関係は反転するから、そこから一項の意義=iマルクスの文脈でいえば一商品の内在的価値)が決  
定的に確定されることはありえない。だが、この価値形式(相対的価値形式と等価形式)の反転≠ェ禁止されるとき、いいかえれば一般的等価物(貨幣)が規範≠ニして出現するとき、それ以外の項は意義=iマルクスの文脈では内在的価値)をもつのである。〔4〕

と言うところの貨幣としてのCである。
 引揚船の中の「藤野君」がサッカリンという貨幣を一般的等価物として使用したのと『どれい狩り』で

飼育係    べつに、構ったりするつもりはありませんよ。(ウエーたちに、うながされながら)ただ、
               
      そうっとしおいてやらないと、すぐに不眠症になったり、下痢をしたり・・・・・
娘        フフ・・・・・
飼育係    (うろたえ)何がおかしいんです?  本気で言っているんですよ。
娘        それじゃ、私にキッスをして下さる?
飼育係    キッス?
ウエーの男  ウエ・・・・・
ウエーの女  エー・・・・・
娘          ほうら、出来ないでしょ。やっぱり、あのウエーが人間だっていう証拠じゃないの。
飼育係      (狼狽して)ち、ちがいますったら!   〔5〕

とウエーが人間の集合の中に混入するのを禁止する規範として登場する飼育係は、価値形式における性格により、密接に繋がるのだ。つまり、『どれい狩り』において

娘          皆さん、ウエーになりましょう。
飼育係      ウエー。〔6〕

と、禁止する規範である飼育係が、その禁止を犯す結末は、「価値形式」で説明される貨幣が

価値形式の反転を禁止すると同時に、この禁止をつねに侵犯する 〔7〕

ことと何等変わりない。
 又『人間そっくり』で、主人公であるラジオの脚本家が、人間そっくりの火星人と称して登場する人物によって、自分とその他の人物を、火星人か人間か、判断出来なくなり

「それじゃ、私のことは、どう思う?・・・・・私は火星人かな、それとも、地球の人間かな?」
 もはや黙るしかない。
〜略〜
分っているなら、どうか、教えていただきたい。ぼくだって、べつだん、好んで沈黙をつづけているわけではないのだから・・・・・〔8〕

という結末にならざるを得ない事は論理的にも明らかである。
 つまり、私が小説製造機と言った物は「マルクスの価値形式」と言えよう。
 では、なぜ安部が二度も同様の話を書いたのであろうか?
 勿論一九五四年に書かれた『どれい狩り』から一九六七年一月に刊行された『人間そっくり』へ、そして一九七五年一一月に刊行された『笑う月』所収『藤野君のこと』の間、二一年もの長い年月を考慮に入れると、「よくわからない」繋がりへの執着が窺えるのだが、そのほかに『砂漠の思想』所収『SFの流行について』で

 日常性とは、言い変えれば、仮説をもたない認識だともいえるだろう。いや、仮説はあるのだが、現象的な事実と癒着してしまって、すでにその機能を失ってしまっているのだ。そこに、あらたな仮説をもちこめば、日常性はたちまち安定を失って、異様な形相をとりはじめる。日常は活性化され、対象化されて、あなたの意識を強くゆさぶらずにはおかないはずである。
〜略〜
  SFの流行も、これを仮説精神の回復とみるならば、単なる現象をこえた、文学の本質にかかわる問題であるはずだ。〔9〕

と、主張する、安部が考える「文学の本質」にかかわる事と、前述した「価値形式」のダイナミックな構造が同居している為なのだと考えられる。
 その意味上に、我々は安部のシュールレアリスムをも知る事が出来る。
出典・注
〔 1〕安部公房『笑う月』43頁(新潮文庫 一九九三年)
〔 2〕安部公房 同書48-49頁
〔 3〕安部公房 同書54-55頁
〔 4〕柄谷行人『隠喩としての建築』220-221頁(講談社学術文庫 一九九一年)
〔 5〕安部公房『幽霊はここにいる・どれい狩り』115-116頁(新潮文庫 一九七五年)
〔 6〕安部公房  同書190頁
〔 7〕柄谷行人  前掲書221頁
〔 8〕安部公房『人間そっくり』176頁(新潮文庫 一九九三年)
〔 9〕安部公房『砂漠の思想』54-60頁(講談社 一九九四年)
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