1999年、NATOがユーゴスラビアを空爆したことをきっかけに著されたとおぼしき多木浩二の
戦争論
1999年出版だけれども、内容は二年後の同時多発テロを予見しているようでもあり、また戦争はどこかで今も起こっている。
この本では、近代の戦争、近代日本の戦争、ナチの暴力、冷戦、そしてNATOによる空爆、と、歴史の流れに沿って「戦争はいかにして起こるのか」を考察している。
この本でわかったことは、「戦争は理性というものを失ったときに行われる」ということ、そして「戦争する可能性を持ってしまえば、戦争に行き着いてしまうこと」だ。
確かに、アメリカを攻撃した日本が、当時理性的な推論をしていたとは思えないし、明治政府は士族階級を抑えるために平民から兵士を調達し、理性を兵士に与えない教育をしたという。
「聖戦」とはナショナリズムお得意の語だけれども、若者が国家のために生命をかけて戦場に赴く衝動をかきたてるものであって、哲学的には貧困である、という記述は、なるほどという感じ。
北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれないということで、迎撃の準備をしていると報道されていた。そりゃ、防がなければ危険だとは思うけれども、一部の人はワクワク感を持っているのではなかろうか。「やっとこの武器が使える♪」と思っている人も。イヤな感じだ。
日本が安易なナショナリズムに走らないよう、「理性」を鍛えておきたい。
「どんなに戦争がハイテク化しても、死んでいくのは個人的身体」という筆者の言葉は重く受け止めなければならないと思う。
決して難しい本ではありません。
月別: 2009年3月
廃用身 久坂部羊
私の母は、在宅で姑(私の祖母)の介護を10年間していた。私が物心ついたときから祖母は寝たきりで、「アルプスの少女ハイジごっこ」をやったりしていた。もちろん私がハイジで、歩けない祖母はクララだった。
当時の母は今の私より若く、幼い子を抱えての介護は大変だったろうと思う。なかなかお出かけできないし、今みたいに「デイサービス」とかなかったと思うし。
お風呂は、ときどき父の姉妹がうちに来て、3人がかりでやっていたと思う。
私の祖母は、とっても小柄な人だったので、それが救いだったか。
私が老人になるころは、日本中老人だらけで、介護する人は少ない。私は、小柄とはいえない。子沢山というわけでもない。もしも介護される立場になったら、介護者に苦労をかけることは辛いと思う。
久坂部羊の
廃用身
は、怖いけれども、たいそうな問題作だ。
「廃用身」とは、麻痺で回復の見込みがない手足のこと。老人デイケアを中心とした老人医療の施設で診察をする医師の漆原は、介護者の負担を減らすため、また他の見地から被介護者の希望のもとで、肢の切断を提案していく。
人工肛門のとりつけも。
奇想小説ではあるけれど、問題としてはリアルだと思う。
今でさえ人が足りず十分なケアが難しいと言われる介護の現場。これからさらに深刻になると思うけれども、今の政治家は、とりあえず自分たちは介護してもらえそうだからイマイチ真剣味が足りないかもしれない。でも私たちの世代にとっては重大な問題だ。
リアル姥捨山・野垂れ死にの老人増にならないようにしてほしい。
私が被介護者になったら、人工肛門ぐらいは甘んじて引き受けるかも。手は片方だけでも残して欲しい。本が読めるように…
言葉のチカラ 香山リカ
香山リカ氏は精神科医。日ごろから言葉には相当気を使う職業だろうと思う。
人って、言葉によってずいぶん気持ちの振幅があるからなあ。
言葉のチカラでは
日常でよく使う言葉をテーマにして、人付き合いの秘訣や留意すべき点をわかりやすくさりげなく教えてくれる。
共感するところもあり、また、「え?こんな言葉で傷つく人もいるの?」と知ったり。
言われて、気分のいい言葉
「こんなに楽しいのは、初めてです」…恋愛の場面では相当効くだろうな。
「お安い御用で」…これは、なるほど気持ちいいかも。自分でも使おう。
言いにくいことを回避する言葉
「ちょっと忙しいです」…「ちょっと」というところがポイントか。
いつか言ってみたい言葉
「私を信じてください」…仕事をしているとき、この言葉を言えるようになりたかったけど、難しかった。
香山氏は、言葉のチカラを鍛えたいならば「最高、感動、奇跡、絶対」の四つの単語は使わないこと、と言っている。テレビや広告はこれが非常に多い。しかし、「サイコー」は私の口癖なので、ちょっとドキッとした。
個人的に思うんだけど、今の中高生って、「最悪(サーイーアークー)」っていうのが口癖になってませんか?雨が降ったり、忘れ物をしたりのレベルでも「サーイーアークー」。
人生で最悪っていうのは、そんなもんじゃあないのよ、と耳元でささやいてみたい。
香山氏の本の話題に戻る。言葉が取り扱い注意だということを、改めて気づかせてくれた一冊。
森に眠る魚 角田光代
「VERY」という雑誌をご存知だろうか。近くの公民館みたいなところに置いてあるので、ときどき閲覧するのだけど、田舎に住んでいる私にとってはジョークとしか思えない内容である。
30代の若いママ向けの雑誌だが「結婚して子どもがいてもチヤホヤされたーい」「ママ友に負けたくなーい」という欲望がむき出しになっている。
「公園デヴュー服」とか「姑に会う時はこんな服で」とか…いや、東京だけでしょ、こんなの。しかし、うちの近所でも必ず売られている雑誌だから、一定のニーズはあるのだろう。
角田光代の
森に眠る魚
東京の文教地区に住む、5人の母親が、お近づきになるのだけれど、「お受験」をきっかけにだんだん関係が歪んでくる、という話。「VERY」に出てきそうな人もいる。
女同士の人間関係の心の機微というものを見事に描いていて、とても面白かった!
でも怖い…話だった。「お受験殺人」という事件が10年ぐらい前にあったことを、読めば誰もが思い出すだろう。確か下手人は僧侶の妻だったような。
小さい子どもがいる母親というのは、ママ友が欲しい!と思うほど孤独なものなのだろうか。この小説に出てくる5人は、心を許せる人の存在を欲しているけれど、夫の影がまことに薄い。夫は子育てに悩む妻の支えにはなれないものなのか。
世のお父さん、ダルくても妻の話は聞いてあげましょう。
「小説推理」に連載されていたらしいけれど、ぜひ「VERY」で連載して欲しかった。
コールドゲーム 荻原浩
いじめの問題は、よく小説の題材にされる。未だにいじめによる自殺のニュースが後をたたず、残念に思う。いじめは、でも無くならないと思う。
ストレス抱えた人間はどうしても何かを見下したくなるし、大人の世界もいじめに満ちているし、文化人類学者の山口昌男が
学校という舞台
でも触れているように、「バルネラビリティー」(持って生まれたいじめられやすい性質)を持つ子はどうしてもいると思うし。
荻原浩
コールドゲーム
中学時代、いじめの被害者だった少年が、4年後、かつての同級生に報復をしているといううわさが流れる。主人公の光也は直接いじめてはいなかったものの、傍観者だった。
いじめの内容も酷く、報復をする側もやることがすごすぎて、どちらにも感情移入できなくて困った。もしこの本に書いてあるようないじめが存在するならば、これはもう大人の想像を超えて犯罪そのものだ。
報復の行方がどうなるのか?ミステリとしては、結末が驚き!でハラハラはした。
高樹のぶ子
せつないカモメたち
も、いじめがモチーフになっている。40歳で×イチの主人公は映画館で働いているが、ひょんなことから中学生のアヤと知り合う。アヤはどうやら深刻ないじめを受けているらしいが、それを親はもちろん全く知らない。
若者の殺傷事件やいじめ事件に対する作者のやるせない思いは小説ににじむものの、出口はなくただ流されていくだけ。
いじめは、無くならないとは思うけれども、自殺は、防ぐことができると思う。
もちろん「いじめはいけません」という教育も必要だけれど、「いじめられたらどうするか」ということについても、現実的かつ、精神的なマニュアルを作っておくべきではなかろうか。
いじめられたら…前述の『学校という舞台』はオススメ。あと、山田詠美の
蝶々の纏足/風葬の教室
の『風葬の教室』を読もう!
一瞬で新しい自分になる30の方法 北岡泰典
勝間和代氏の本で、「NLP」(神経言語プログラミング)というものがあるのを知った。
まだ、新しい研究分野らしく、いろいろ本はあっても玉石混交みたい。
この
一瞬で新しい自分になる30の方法
が玉か石かは分からないけど…結論からいって私には必要ない本だった。
紹介文には〈世の中の多くのビジネスパーソンが抱えているストレスのもとになっている悩みや心配事に対して、脳を前向きに、快の状態に変換できるNLPのテクニックを使って、ストレスフルな状態をストレスフリーに変えるための実践な方法を提示する。気になる症状や悩みの箇所を拾い読みして、実際にストレス解消のためのテクニックを試してみるというアクションと気付きを促すためのワークブック。 〉とある。
本を読んでみると、「現実とはその人に特有の知覚の癖で出来上がっているものなので、知覚の仕方を変えれば現実は変わる」という考え方。
具体的な実践方法が抱えているけれど、
・人の下唇を一日、観察する とか
・その場でジャンプする とかは、職場ではしにくいのではないだろうか。(その他、具体的方法はたくさん挙げられている)
仕事をしていれば、ストレスからは逃れられない。人間関係の悩みは、相手はなかなか変わらないだけに、解消のしようがないかもしれない。そんなどんづまりにある人には効果的な方法でもあるのかも。
でも、ストレスから目をそむけずに、そこから自分で知恵を絞って現実を変えようとする力も必要なはず。
あと、自分で自分のストレス解消法を持っておく、というのが大人の作法ではないかと思ったり。
NLPについてはもっとよい本もあるかもしれないので、一概に否定はしないでおこう。
スノーホワイト 谷村志穂
芥川龍之介は『侏儒の言葉』の中で
〈わたしは第三者を愛する為に夫の目を偸んでいる女にはやはり恋愛を感じないことはない。しかし第三者を愛する為に子供を顧みない女には満身の憎悪を感じている。〉と書いている。
侏儒の言葉/文芸的な、余りに文芸的な
世に不倫話は多いけれども、不倫話が美しくあるためには、やはり子供がいないこと、って重要なのではないかと思う。あと、お金の心配がないってことも。
江國香織の
東京タワー
は、年の差二十ぐらいの不倫もの。大学生の透と、仕事を持つ人妻詩文の恋愛を描いている。
透の視点から描かれていて、岡田准一×黒木瞳で映画にもなった。(映画は原作のよさが失われていた。寺島しのぶがすごくよかったけど)
世の中年女性にときめきと希望を与える作品のようにとらえられるかもしれないけれど、若い男子の純情と、自分の想定内で恋愛を進めようとする中年女性の卑怯さとダメさ加減がよい小説だったと思う。子どもなし、お金の心配なしで、物語は美しい。
さて、谷村志穂の新刊、
スノーホワイト
これは不倫ではないが、かなりの年の差だ。主人公の大学生は21歳の男子、ヒロインは45歳で、介護を仕事にしている独身女性。まさに「親子ほど」歳の離れた二人の話だ。
コンビニでアルバイトをしている大学生が客としてきた女性に次第に心ひかれ、通じ合い、ためらい…連続恋愛ドラマみたいな感じ。おとぎ話ではあるけれど、男子がヒロインに魅力を感じることができるのがすごいと思った。これも映画化して、世の中年女性に希望を与えるのかしら。
自分のことを客観的に見る目を持っていなければ。もし私が20も下の男の子に言い寄られたら、まず詐欺にひっかけようとしている、と警戒することにしよう。あんまり心配なさそうだけど…
不可能性の時代 大澤真幸
「社会学」というのはなんだか、とらえどころのない学問のように思える。勉強するのは面白そうだけど、それで?客観性は?どうやって社会に貢献するの?もちろん人文系の学問は全部そうなんだろうけど、比較的新しい分野だけに社会学というのはなんだか頼りないイメージがある。でも、今ある社会を客観的にとらえて現象を分析することは、庶民にとっては安心?の材料にもなるし、さまざまに役立つものなのだろう。
不可能性の時代
は、社会学の旗手、大澤真幸の著。
戦後の日本の社会を、理想の時代-虚構の時代-不可能性の時代 に分け、現代を「激しく暴力的で、地獄のような現実への欲望を持つ」という「不可能性の時代」ととらえている。
虚構の時代までは気軽に読めたが、不可能性の時代の説明は厄介で、寝転がっては読めなかった。
超越的な他者≒第三者の審級、というものが磨耗する中で、超越的な第三者を再構築しようとすればどのようなことがなされるか、といった内容。キーワードは「暴力」だ。
確かに、何がよくて何が悪いのかがわからない時代だ。政治家に人をひきつける魅力は薄いし、テレビもインターネットも気まぐれなメディアで私たちを戸惑わせる。家庭内でも、父親が家族に率先垂範するなんて姿は見られないのではないだろうか。
筆者は小規模で民主的な共同体が分立しつつ、他にもつながるルートも広がりうる民主主義に期待している。
ペシャワール会の実践、サリン被害者河野義行さんの行動で、敵対しあうものの間にもひかれうるものがある、そんな人間の可能性に触れていたが、そこのところをもっと具体的に教えてくれたら私のようなものにも分かりやすいんだけど…
憎むべき相手と「対話する」、よほどの教養と精神力がなければならないけれど、でもそこに人間の可能性はあると、私も思う。
ガープの世界 J・アーヴィング
ガープの世界(上巻)
主人公のガープの母はジェニー。ちょっと考えられないような受胎の仕方で生まれた。看護婦の母とともに暮らすガープは作家を志すようになる。愛する妻と結婚し、本を出し、子どもも授かるけれど・・・
恐ろしく波乱万丈な人生が待っている。
高校時代、「この問題あたるといやだなあー」と思っていたらよく当てられた。これは小さいレベルだが、いやーな予感というのはけっこう当たる。ガープの人生も、いやな予感が当たりまくる人生という感じ。悲惨な事実が待ち受けていて、妻のヘレンがいうように人生そのものが自殺のようで、つねに「死」の予感が彼を取り囲む。
でも、じっとりとした悲惨さというより、乾いた悲惨という感じ。クールな文体でどんどんと物事が進んでいき、どんどん過去になっていく。ヘレンとガープの関係が、なぜか私には村上春樹『スプートニクの恋人』のすみれと僕の関係を連想させた。
さまざまな意味で性の問題が取り上げられているけれど、日本の文学ではあまり見かけない視点があって興味深かった。
J・アーヴィングの世界は、映画にもなっていて、けっこう好き。
サイダーハウス・ルール
ホテル・ニューハンプシャー/ジョディ・フォスター[DVD]
どっちも見たけれど、面白かった。女性にとってはひどい場面もあるけれど。
対話のレッスン 平田オリザ
対話のレッスン
劇作家で演出家の平田オリザ氏が、対話の必要性や英語公用語論、現代の話し言葉について、自分の考えを綴っている。
対話とは、他者との異なった価値観の摺り合わせ。その摺り合わせの過程で、自分の当初の価値観が変わっていくことを潔しとすること、変化に喜びを感じることが対話の基本的態度だとしている。
古代ギリシア人は民主制を維持するために新しい価値観を創造していくシステムの必要性を感じた。そこで対話の技術を高めるための方法として哲学と演劇を編み出したとしている。
筆者は演劇の可能性についても述べているけれど、もうすこし具体的に知りたかった。そういう著書もあるのかしら。
「対話」をするには、「自分」がなければならない。果たして私は大人として語れる価値観を持っているだろうか。相手を尊重して話をしているだろうか、と振りかえらせられた。価値観が多様化していて、子どもの世界でも大人の世界でも違うグループの人とは話もできないような現象は起こっているかもしれない。でも、気の会う人間だけで暮らしていけないのが現実。「対話」の技術を磨く必要はありそうだ。
筆者は中島義道氏の
〈対話〉のない社会
を多く引用している。これもよい本で、超オススメです。