昨日のページで「カツマー」に言及したけど、「タツラー」は増殖の兆しがないのかな?
内田樹氏(うちだたつる)に私淑する人を「タツラー」と名づけたい。私の知人に、新幹線に乗ってまで氏の講演を聴きに行くというかなりの「タツラー」がいる。武田鉄矢も「タツラー」だそう。実は私もちょっと「タツラー」だ。
教育論という書名だけど、内容は多岐にわたっている。教育がビジネスのようにとらえられている風潮のある現在、それに対立する意見を述べていて、なるほど、と思うことが多々あった。
教育は入力から出力までのあいだに「時間がかかる」から、入力と出力の差がゼロであることを理想とするビジネスとは性質が反する。教育再生会議(←これどこへ行ったの?)のメンバーは教育をビジネスマインドでとらえようとしている点で間違っている、とあった。
私は、学校っていうところは「清く正しく美しく」「平等」ってことを(そこでだけでも)恥ずかしげもなく言うべきところだと思う。たとえ「世間の論理」と乖離してても、教師は「理想」を生徒に語るのが、のちのちの生徒の人生において生きる力になるのではないかと。
私の意見はちょっと本題とも内田氏の意見からも外れているけれど、内田氏の指摘は独自な分析がなされていて、「目からウロコ!」という箇所がいくつもあった。
ネットカフェ難民、ワーキングプアと呼ばれる人々は、「連帯」という合理的な選択をほとんどしていない、とあった。私も、「彼らが力をあわせたらいいのにな」と思っていたんだけど、内田氏によると「自己決定、自己責任」の呪文にあおられて、「個性的」であることを強いられてきた世代は、「共同的に生きる能力」「連帯する技術」を奪われてきたのだと。
この能力、技術はこれから必要になってくると思う。少子化で兄弟も少ないから、「学校」でしか学べない気がするんだけど、どうなっていくんだろうな。「サイバー大学」「サイバー高校」が中心になったら、恐ろしい…